通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第1章 敗戦・占領、そして復興へ
第1節 連合国軍の函館進駐
1 占領軍の函館進駐

敗戦直前の有識者の考え

8.15の回想と記憶

アメリカ軍の進駐を前に

進駐軍心得懇談会の開催

連合軍進駐への心構え

函館署の注意事項

アメリカ軍の進駐開始

「教務日誌」にみる状況

アメリカ軍の上陸と駐屯施設

北海道進駐のアメリカ軍兵力

占領行政の開始と土地・建物の接収件数

司令部が置かれた五島軒

将兵の宿舎・函館水産専門学校

「衛生」部隊が入った共愛会館

一時接収のゴルフ場

8件残して接収解除

進駐アメリカ軍のその後

アメリカ軍の進駐開始   P49−P50

 函館港では、10月3日午後10時から5日午前8時までの間、一切の船舶の航行が禁止されるなかで、同4日アメリカ軍が函館に上陸した。アメリカ側の記録によれば、10月1日現在第九軍団のうち第八一歩兵師団は青森に上陸し、軍団司令部はアメリカ海軍のアパラチアン号の艦上に、また、第七七師団司令部は小樽に向けて航行中の第一三輸送船団の船上にあった。10月3日、第一三輸送船団は「日本・本州の北東端海上」にあって、4日払暁に津軽海峡を通過した。そして、同日朝10時、第七七師団第三〇六旅団(RCT、Regimental Combat Team)が函館に上陸し、レイ・L・バーネル准将が上陸し、3個大隊の指揮をとることになった。アメリカ海軍の上陸支援部隊は、函館港に残るペンスコラ・イザード・ネルビンの3艦を残し、午後2時に小樽へ向けて出港したのである(高橋昭夫 『証言 北海道戦後史−田中道政とその時代』、なお栗田尚弥「米国国立公文書館新館における占領期北海道の資料について」『地域史研究はこだて』第33号は、第七七師団の小樽へ向けての出港を午前11時としている)。
 さて、10月4日当日の「北海道新聞」朝刊は、このことを「米軍愈よ本道進駐 けふ正午上陸 車道歩かず左側通行の事」の見出しで、「米軍本道進駐は四日正午函館市浅野町岸壁から上陸、本道へ第一歩を印するが、先遣部隊函館代表官は進駐軍を迎えるため上陸地点の整備、宿舎割当その他輸送などの準備に万全を期している。進駐軍は四日正午に一部、残余は五日午前から上陸を開始し、五日中に完了する予定である。米進駐軍先遣部隊函館代表官は市内の交通につき特に次の点を強調し、事故の絶無を期している」と報じた。
 ここで指摘されている交通関係の問題点は、(1)交通整理の厳重励行、(2)自動車の警笛に対する注意、(3)横断道以外の通過の禁止といった事項だが、このほかに、9月下旬に函館入りしたアメリカ軍先遣部隊により、函館水産専門学校・函館水産学校・七一部隊・共愛会館・丸井の3階以上・五島軒・憲兵隊本部・函館要塞司令部の8か所が進駐軍宿舎として使用される予定となっていることも報道されている。このことに関連して、9月27日には、青柳国民学校が進駐軍宿舎に決定との噂が市内に広がり、市役所教育課からの問い合わせに同校が否定するということも起きている(「青柳国民学校日誌」)。もっとも登坂市長の回想によれば、9月に来函したアメリカ軍の2名の先遣隊は、兵舎と宿舎の選定をおこなうに当たって、「小学校は戦争に関係がない。子供の学校を自分等は接収しない」との方針であったというから、青柳校の問題は杞憂だったわけである(前掲『終戦前後』)。なお、本山まさな『戦時雑稿 百貨店は業種「丙」』は、9月24日に「通常の軍服笹舟の様な見なれない帽子」を手にした「三人の米軍士官」が、勤務先の棒二森屋百貨店に現れたと述べている。
 このほか、アメリカ軍の上陸する10月4日の当日、駐屯部隊の行進時には一部区間の電車は運行を中止し、市民の夜間外出は禁止された。女子夜学校は休校の措置が取られ、国民学校や中等学校は原則として休校せず、アメリカ軍進駐地区の各学校は、警察と協議のうえ休校を決定することになっていたが、実際には、10月1日から7日まで休校の処置が取られた(昭和20年10月4・5・7日付け「道新」、「若松国民学校日誌」)。
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