通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第1章 敗戦・占領、そして復興へ
第1節 連合国軍の函館進駐
1 占領軍の函館進駐

敗戦直前の有識者の考え

8.15の回想と記憶

アメリカ軍の進駐を前に

進駐軍心得懇談会の開催

連合軍進駐への心構え

函館署の注意事項

アメリカ軍の進駐開始

「教務日誌」にみる状況

アメリカ軍の上陸と駐屯施設

北海道進駐のアメリカ軍兵力

占領行政の開始と土地・建物の接収件数

司令部が置かれた五島軒

将兵の宿舎・函館水産専門学校

「衛生」部隊が入った共愛会館

一時接収のゴルフ場

8件残して接収解除

進駐アメリカ軍のその後

進駐軍心得懇談会の開催   P43-P45

 9月に入り、「十月五日頃から開始される」アメリカ軍の進駐をまぢかに控え、まず12日に函館警察署で英語・ロシア語・中国語の道庁通訳官の採用試験がおこなわれることになった。その待遇は、月給150円から400円であった(昭和20年9月9日付け「道新」)。続いて同13日から15日までの3日間、市内の小学校を会場として函館署が各町会ごとに「進駐軍心得懇談会」を開いている。その目的は、アメリカ軍の進駐を迎える函館市民の心構えについて注意を喚起することにあった。懇談会は、市内を第1方面から第8方面までの8ブロックに分けたうえで、たとえば第1方面の場合は、いずれも弥生国民学校を会場として、13日は山背泊・澗・台、14日は船見・天神・駒込、15日は鍛冶・富岡・旅籠・大黒・弁天・大・仲浜の各町会を対象に実施した。第3方面の会場となった若松国民学校の記録によれば、9月13日は、午後3時から5時まで警察官による講演「進駐軍ニ対スル心得」がおこなわれ、聴衆は「三百人位」であった。翌14日の講演は午前10時からおこなわれ、前日と異なって雨天にも関わらず聴衆は「三百余人」が集まった(「若松国民学校日誌」)。

登坂良作
 この懇談会には、函館署の佐藤署長以下警部補・係・主任がそれぞれ手分けして出席説明に当たっていたが、すでに進駐の始まった神奈川県で一部市民との間に不祥事が起きていることから、「夜の外出や戸締りの注意は勿論婦人層に対しては派手な服装や厚化粧して徒らに刺激することのないよう色々な具体的注意を与へるが、各家庭から必ず一人特に婦人の出席を希望」していた(9月12日付け「道新」)。しかし、この懇談会の席で警察側から市民に対して、具体的にどのような説明がなされたのかは不明である。この点に関連して、当時函館市長だった登坂良作は、アメリカ軍の進駐を前にして次のような対策を取ったと述べている( 昭和30年8月16日付け「函新」)。

 もう覚悟はしていたものの、一番心配したのはアメリカ兵が進駐してくるときの混乱ということで、ことに女性の問題はだれがいうともなく恐怖の話題となっていたので、先ずその実例を知るべきだと考えて、函館より先に進駐された盛岡と仙台とへそれぞれ吏員を派遣して調査させたところ、盛岡は平穏だったが仙台はひどかったということがわかりました。それでさらにある牧師さんでアメリカにいたことのある人に来てもらって、アメリカの兵隊は本当にそんなことをするかどうか聞いてみると、この方もあまりアメリカ人をよく言わない、そんなことで結局、例の米兵が来たらこれを見せて下さいということで英語で″英語がわかりません、用事は七十五番(警察署)に電話して下さい″というビラを各戸に配布し、なお米兵と会った場合は視線を合せてはいけない、笑顔をしてはいけない、肌を見せてはいけない、といった工合の注意も発表せざるを得なかった。心配の余り遂には私の家まで市民諸君が訪ねて来て、若い二人の娘がいるが、どうしたらよいかなどといわれるので、その時は矢張り何処か田舎へでも逃がした方がよいかも知らんといったものでした。

 また、20年9月5日付けの「北海道新聞」には、「こんな態度は禁物」「婦人は好奇心捨てよ 誤解招く片言の英語 服装は地味、行動は毅然たれ」といった見出しで、北海道民というより日本人が、アメリカ軍をはじめとする連合国軍兵士と接する場合の注意事項を詳しく記した記事が掲載されている。この懇談会では、おそらくこのようなことが講演の中心となったことは想像に難くない。
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