通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第1章 露両漁業基地の幕開け 自治区制の出発 |
北海道区制の実施から初区会の開催までは、通説編第2巻第3章第2節の2(自治区制の実施)に叙述してあるので、若干重複するが、ここでは自治区函館の具体的な展開を取りあげてみる。
自治区制の出発 P16−P19 明治32(1899)年10月1日、北海道改正区制の施行により函館区を所管していた函館支庁が廃止され、自治制の函館区が札幌区と小樽区とともに誕生した。区を統括し行政事務を担任する区長が選ばれて事務引継が行われるまで、監督官庁である北海道庁が準備作業を担当した。9月16日の区制実施準備協議会は道庁内務部長の指揮の下で行われ、函館では函館支庁長兼亀田支庁長の龍岡信熊が準備事務を統括した。なお、函館区役所誕生と同時に亀田支庁は函館支庁と改称され、元町の旧函館支庁庁舎に移転、龍岡は新函館支庁長でかつ函館区長事務取扱となった。函館区役所は函館支庁庁舎に間借り(9月12日北海道庁告示230号)し、1年以内に移転などを考えるということであった。 同月3日付けで内務部長から示された条例・規則の標準案は、区役所処務細則、区吏員服務心得、区会会議規則、区会傍聴規則、区会会議録書式、区公告式規則、委員規則、部設置規則、区税其他滞納督促及手数料規則、区会議員の実費弁償額及其の支給方法条例等であったが、ほとんどの指令許可はまず電信で行われ、区の暫定歳入歳出予算(10月1日〜翌年3月31日)が種々の修正が加えられ道庁から認可となったのは11月2日であった。これらは区会成立後関係条例・規則とともに区会で審議されて(区条例は内務大臣の許可、区規則は北海道庁長官の許可)整備されていった。 ついで区会議員選挙人名簿も整えられ、30日から3日間区会議員選挙が実施された。区制実施直前の函館区の人口は8万3285人と告示され(9月26日道庁告示229号)、議員定数は30人(区制第38条)となった。議員選挙は区税の額で3級に分けて行なう等級選挙制で各級10人ずつ(連記制)が選ばれた。事務方から選挙結果が道庁長官に電報で報告されているが、その電文はすべて「常野派全勝す」であった。常野派の主張は商業振興であったという(明治32年12月3日付「北海道毎日新聞」)。また「小樽新聞」によると25日に平田文右衛門、渡辺熊四郎、相馬理三郎ら有志派による予選会の開催と30人の候補者の選定を報道している。常野正義らとの主張の違いは不明ではあるが、平田文右衛門を始め有志派の主立った人々はすべて落選している。選挙権者は567人、被選挙権者548人で(12月1日現在)、各級の内訳は不詳だが、函館区の人口の0.7%未満の有資産者による選挙であった。議員の任期は6年で3年ごとに半数が改選された。函館の場合は半数改選直前に抽籤で決定した。当選者は表1−1の通りで、12月6日に区会の成立が道庁長官に電報で報告された。
明治33年1月の第3回区会で、区の重要事項を担当する「函館区常設委員規則」が設けられ、区有土地建物・水道保存・公園地・町会所取締・土木に関することを担当する常設委員が誕生した。委員は8人で、任期は3年、区会議員の互選で小川幸兵衛らが選任された。区当局の原案は、水道委員、土木委員、公園委員を各々設置する規則の提案であったが、これらを総括的に担当する常設委員の設置となったのである。 改正区制により、区には区財政自立を図るために基本財産の維持が明示され、区長には歳入歳出予算の調整権が委ねられると同時に、区会に事務報告書および財産明細表の提出が義務付けられて、区政がより開かれたものとなった。さらに区の各種事業について特別会計を設けることが出来るようになり、函館病院経営(大正元年から特別会計)と水道事業(明治32年から給水工事費が特別会計…その後明治42年から大正12年迄は一般会計に組み込まれ、大正13年から水道費特別会計)が特別会計の2本の柱となっていく。 しかし、全国的に行なわれていた「市制」が第2章「市会」であるのに対して、「北海道区制」では第2章「区行政」、第3章「区会」となっているところから見ても、また市制では「議長が市会議員の互選」であるのに、北海道区制では「区長が議長を務める」など、北海道区制が準市制的なものであったことは否めないところであった。 これらの自治的な制度の拡張に伴って、区長以下区の行政事務に携わる者に関する費用は、区民負担として明文化される(第37条)など従来より区民とのつながりのある自治区制が出発したわけである。 |
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