通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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序章 北の大都市の時代

20万都市への急成長

モダーンな街

繁栄を支えた露領・北洋漁業

市民の職業構成と労働運動

戦争のなかで

戦争のなかで   P13−P14

 日本は、昭和6年の満州事変以来、同12年の日中戦争、そして同16年の太平洋戦争へと戦争の道をまっしぐらに進んでいったために、昭和20年8月14日までのいわゆる″十五年戦争″期における函館の歴史も、この″戦争″に大きな影響を受けざるをえなかった。まず大正・昭和戦前期の函館の繁栄を支えた露領・北洋漁業は、昭和11年の日独防共協定の締結を契機に日ソ関係が悪化の一途をたどり、出漁は1年ごとの暫定協定によって続けざるをえなくなっただけでなく、太平洋戦争開始後は、船舶・人員の不足で出漁は益々困難となり、昭和10年に376を数えた漁区が同18年には120に減少し、さらに同19年には実際経営が行われた漁区はわずかに34漁区にとどまった。それに伴い関連産業も大きな打撃を蒙り、函館の経済は戦争の進展につれて悪化の一途をたどっていった。
 また、男性の減少(現在人口に占める男性の比重は、昭和14年迄はほぼ51から53%、昭和15年50.1%、翌16年以降は47.4から48.2%と昭和15年以降著しく低下している)に伴い、昭和15年以降、女性が路面電車の車掌や運転手として働くようになるとともに、市内の各種産業に女性が動員されるようになった。さらに、同年、道庁保安課が歓楽街に対し営業時間の短縮を命じたため、函館でも貸座敷・飲食店・喫茶店・カフェー・興業場などで営業時間を短縮され、繁華街からネオンが消え、繁華街は次第に寂れていったが、繁華街の寂れに追い討ちをかけたのが昭和18年、政府がジャズなどのアメリカやイギリスの音楽の演奏を禁止したことであった。こうして、戦争が激化するにつれ、昭和19年以降人口が減少して20万人台を割り、″モダーンな街″函館の姿が消えていったのである。なお、この十五年戦争期の函館の歴史をみるうえで、昭和17年1月、日本基督教団の青年牧師補小山宗祐が護国神社に参拝するのを拒否したという理由で検挙され、同年3月獄中で自殺するという痛ましい事件があったことを忘れてはなるまい。
 その後、昭和20年7月、函館が空襲にあうとともに青函連絡船が爆撃され、多くの尊い命が犠牲となった。翌月15日、ついに敗戦を迎えたが、この十五年戦争で命を失った函館市民は、軍人のみで4700余人に達したのである。
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