通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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序章 北の大都市の時代 20万都市への急成長
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20万都市へ急成長 P4−P6 函館は、幕末の「開港」を大きな契機として、以後急速な発展を遂げ、開港直前の嘉永6(1853)年にわずかに9419人に過ぎなかった人口が、戊辰戦争終結時の明治2(1869)年には2万5000余人となり、その後も順調に増加の一途をたどり、日露戦争直後の明治39年には9万885人に達するに至った。こうして函館は、明治30年代までには、名実ともに北海道最大の港町、北の″都市″へと変容を遂げていったのである。この間の函館の様相については、『函館市史』通説編第2巻で詳述したところであるが、函館の人口は、その後も増加の一途をたどり、大正3(1914)年には10万人を超え、次いで大正12年には15万余人に達し、昭和6(1931)年には20万人を突破するとともに、昭和13年には22万余人に達するに至った。ちなみに、(1)大正3年から同12年(9か年)、(2)大正12年から昭和6年(8か年)、(3)昭和6年から同13年(7か年)の各期における1年平均の人口増加数をみると、(1)期が年平均5700余人、(2)期が年平均6400余人、(3)期が年平均2400余人で、(2)期の増加数が最も多いが、これは、下の図からわかるごとく、昭和5年に前年の18万300人から19万7252人へと一挙に1万6952人増加したことによる。 とはいえ、昭和6年から同18年にかけた時期には、大正から昭和4年にかけた時期よりも各年ごとの人口の増減が激しかった(特に昭和9年と翌10年の増減が著しく、昭和9年には前年より3万1509人減少し、翌10年には2万2097人増加して再び20万人台に達する)。それでも昭和9年を除けば、この期には人口20万人台を維持しており、したがって、大局的にみれば、明治末から昭和10年代にかけた時期は、20万都市に向けて急成長を遂げていた時期であったといってよい。 では、この時期の函館は全国規模でみた場合、どのような地位にあったのであろうか。下の表は大正9年から昭和15年における人口10万人以上の都市数および上位20位の都市数と人口を示したものである。これによれば、函館は、人口規模において大正9年・同14年ともに全国第9位の地位にあり、昭和5年以降は、全国各地の諸都市が急速に成長してきたこともあって、10位、13位、17位と次第に順位が下がってくるものの、それでも昭和5年までは、北海道の行政の中心地である札幌市はいうまでもなく、東北地方の中心的な都市である仙台市よりも上位にあった。このことは、とりもなおさず昭和5年までは、東京・横浜を除けば、函館は″関東以北最大の都市″であったことを示している。しかも、昭和10年と15年は、その順位こそ下がるものの、20万都市という地位は維持していたのである。したがって、こうした側面にも目を向けるならば、大正期から昭和10年代までの函館は、まさに″北の大都市″であったといっても過言ではあるまい。
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