通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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序章 北の大都市の時代 モダーンな街 |
モダーンな街 P6−P8 この期の都市函館の特徴を一言でいうならば、″モダーンな街″ということができよう。″モダーン″とは、いうまでもなく「近代の」・「近代的な」・「現代風の」という意味の英語であるが、この言葉は、大正デモクラシーの風潮をうけて大正期から昭和期にかけてしきりに使われたので、ここでも当時の流行語でこう表現しておく。ところで、この″モダーンな街″とは一体どのような特徴を有した街だったのであろうか。それには多くの側面が含まれているが、その内の代表的なものを幾つかあげておこう。 (1)『函館市史』都市・住文化編でも触れたように、函館は、明治初年以来昭和9年に至るまで、幾度も大火に見舞われたこともあって、明治末期から昭和初期にかけて耐火建築が次第に多くなってきたこと、特に大正10年と昭和9年の大火を大きな契機として鉄筋コンクリート構造やコンクリート・ブロック構造の建築物が多くなってきたことである。当時こうした建築物は未だ東北地方にはあまり見られなかっただけに、商業中心地におけるビルの林立は″モダーンな街″函館を象徴するものであった。 (2)この期に電灯の普及が急速に進んだことである。全国的には、明治20年代に電灯が普及しはじめたが、函館では、明治29年に函館電灯所が営業を開始したものの、電力の供給に限度があったため、明治30年代では全戸約2万戸の内、わずかに500戸程度の利用に過ぎなかった。ところが、函館水電株式会社の大沼第一発電所が稼働するようになると、供給電力も大幅に増加し、大正末年には利用戸数も4万戸強に達するに至った。大正13年の調査では、函館市の全戸数の約94パーセントが電灯を利用していた。大正末期には、函館市民にとって、ランプの生活はもはや過去のものになりつつあったのである。 (3)大正2年6月に前述の函館水電株式会社が路面電車を営業し始めたことである。この路面電車の開業は東北以北の都市では最初のものであった。ちなみに、札幌で路面電車が開業したのは、函館での営業開始より5年後の大正7年8月(『新札幌市史』第3巻)、東北地方の中核都市・仙台市で市電が開通したのは、札幌よりさらに8年後の大正15年11月であった(『仙台市史』)。 (4)大正期から昭和初期にかけて本格的な百貨店が登場するとともに、その営業形態も、大衆相手の現代のデパートの形態をとるようになったことである。森屋百貨店、今井呉服店、荻野呉服店、そして昭和11年、森屋百貨店と荻野呉服店が合併して、翌12年函館駅前に開店した棒二森屋(森屋)がそれである。森屋百貨店は、明治元年、初代渡辺熊四郎が大町に洋物店を開店したことに始まる。その後明治39年、末広町に移転したが、大正13年の末広町の火災で大きな被害を受けたため、その再建の際に、それまで市内各地にあった業種別店舗の内、洋物店・洋服店・時計店、次いで食料品店を合併して百貨店形式の営業を開始した。その際、鉄筋コンクリート構造の店舗を開設、昭和5年には鉄筋コンクリート構造4階建の店舗を増設し、ここに近代的ビルディングのデパートが登場することとなったのである。今井呉服店は、明治5年札幌に開店した今井商店(のち今井呉服店)が明治25年に函館に支店を開設したことに始まる。同店の札幌本店は、大正5年の札幌大火の復興建築としてレンガおよび石造3階建の店舗を新築したのを機に、百貨店としての営業を始めており、函館支店も大正12年には、末広町に3階建の店舗を建設して百貨店形式の店舗となった。その後、昭和5年に、この店舗を4階建に増築するとともに、隣接して5階建を新築し、さらに昭和9年の大火後の改修・増築により、鉄筋コンクリート構造地下1階・地上5階建、塔屋2階建の近代的ビルディングのデパートとなった。荻野呉服店は、明治22年の創業で、もともと呉服・太物商であったが、大正末期から呉服・太物に加え、各種雑貨物を扱うと同時に営業形態を百貨店形式に切り替えていった。その後、同店もまた昭和6年、鉄筋コンクリート構造4階建の新店舗を建築した。 このように、大正期から昭和初期にかけて百貨店が相次いで登場するとともに、各店ともに近代的な鉄筋コンクリート構造の高層ビルに切り替えていったところにこの期の大きな特徴が見られた。また、各百貨店とも、店内に催事場を設け、展覧会や音楽会を開催したので、こうしたイヴェントもまた市民にとって大きな魅力の一つであった。 (5)市民の娯楽施設としての劇場や映画館が繁栄を極めたことである。函館には既に明治30年代に寄席や劇場が10か所前後存在していたが、大正期から昭和初期には従来の寄席が次第に廃れ、劇場と映画館の時代を迎えるに至った。特にこの時期に最も隆盛を極めたのが映画館で、大正末期には大部分の映画館が常設館となっていた。しかも、昭和期にはいると、トーキーが広まり、昭和10年頃には総ての映画館がトーキーの映画館になっていた。函館の市民は、こうした娯楽施設を媒介にして、新たな文化をいち早く吸収していったのである。 (6)大正期から昭和初期にかけて本格的な「カフェー時代」を迎えたことである。大正末期には、銀座街や大門通りに大小のカフェー50軒余を数えるようになり、昭和6年には、カフェー99軒(女給346人)、バー90軒(女給99人)、レストランバー68軒(女給104人)、レストラン21軒(女給169人)、合計278軒・女給718人を数えるに至った。こうしたなかで、繁華街は赤い灯、青い灯に飾られた不夜城と化した。当時の新聞や雑誌は、こうした状況を「モダーン風景」の代表と評している。 |
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