通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第1章 露両漁業基地の幕開け 林悦郎区長の辞任と政争の影 |
林悦郎区長の辞任と政争の影 P26−P28 明治36年3月19日緊急区会が招集され、議長代理者染木広吉議員が議長席に着き、「区長辞職同意を求むる件」が付議された。林悦郎区長が前日提出した退職願と医師の診断書が示され、止む得ないこととして辞職を承認し、道庁へ辞職認可が申請された(認可日4月9日)。この区会で慰労金として1500円を贈ることも議決された。任期約3年を残した辞任であった。辞任理由を明確に示すことは出来ないが、「函館公論」が明治36年1月1日の社説で述べている「三十五年は尤も事多き一年なりき、特に我函館区の如きは殆んど争を以て始り、争を以て終れり、区民は殆んど小党分争の弊に堪えずと云へり」がその背景にあったと思われる。つまり、35年は区会で函館病院敷地が一転して区役所敷地に変わってしまったことに対して、区長および区会議員に不信任を突き付けた「区民大会」で始まった。この時の区会議員は32年の自治制初の選挙で、平田文右衛門(34年病死)派を押さえて議員となったといわれる人たちで、常野正義が後押しした平出喜三郎(議長代理者)であった。ところが8月の初の衆議院議員選挙では常野正義が平出喜三郎(34年1月政友会函館支部幹事長)に代えて内山吉太を押したため、政友会函館支部が割れて商業倶楽部(会長常野正義)が分派し、これに「区民大会」を主導した馬場民則が同志倶楽部を率いて三つ巴となり、函館初の衆議院議員には平出喜三郎が当選した。さらに12月の区会議員半数改選では、政友会函館支部会員とほぼ重なる公友会と商業倶楽部・同志倶楽部の連合が激突、連合側が全勝した。 ついで年が代わり36年3月再び衆議院議員選挙となり、平出喜三郎と内山吉太が激突、今度は小差で商業倶楽部が押した内山吉太が当選したのである。ほぼ1年の間にこれほど離合集散を繰り返した年も珍しく、選挙に破れた最初の衆議院議員であった初代平出喜三郎はここで政治生命を終えたのである。 この衆議院選挙戦に入る直前の1月22日公友会派の区会議員が林悦郎区長に辞職を勧告した。この辞職勧告は「既に公然の事実」で「同志倶楽部は代議士選挙に就て平出氏を賛助する代りに、区政に対して公政派は宜しく同志倶楽部の意見に合従すべしと云ふの条件」で、区長辞職はその「手金」と見る臆説も流布されている。区民大会以来風当たりが強かった公友会派議員は、区政刷新を旗印とした同志倶楽部と合同して区民一致協和を計る一策であったというのである。もっとも「悉く事実なりと確信するものにはあらず」と結ばれている(3月20〜22日付「函館公論」)。 林悦郎区長以後、区制時代に任期を全した区長は、自治区制の開始から助役を務めた北守政直だけで、彼は明治43年11月から1期6年務め、その他はすべて任期途中で区長職を降りている。すべてが政争がらみというわけではないが、政争の影をひきずる辞任も多かったのである。 この間の明治35年11月30日から12月2日に道内の各区において区会議員選挙が実施された。11月30日付「北海タイムス」は「区会議員の選挙」と題して「三区に於ける選挙の期日、日一日と近づくに従い競争漸く激しく、札幌に於ては有志会の同志会と相争ふあり、小樽に於ては政友倶楽部の公民会と相鬩ぐあり、函館に於ては函館公友会の同志倶楽部商業倶楽部と相争ふあり」と報道している。その時の結果は表1−6に掲げたが、その後も函館区会が選出した区長候補者の不裁可はなく、区会は函館区の舵取り函館区長を選ぶ上で重要な鍵を握っていくことになるのである。
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