通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第1章 露両漁業基地の幕開け 渋谷区長選任問題 |
渋谷区長選任問題 P31−P33 北守区長は、任期満了まで6年間区長の職に在った。さらに次期区長候補予選でも、渋谷助役、前運輸事務所長広瀬孝作とともに候補者に選出された。なかでも広瀬孝作は、物産商有志が推薦に奔走し、366名連署の推薦状が区会に提出された。北守区長は満期退任を表明し、あいかわらず区政の刷新が議論された。ところが北守区長の満期退任直前に広瀬孝作が区長就任を固辞し、区長候補者選出が振り出しに戻った。「函館新聞」(大正5年11月7日付)は区長候補難は区の恥辱であるとの論説を載せる程であった。再び銓衡委員会が開かれ、大正5年11月11日、商業学校長神山和雄が満場一致で候補者に推された。次いで14日、議員協議会が開かれ、三坂亥吉銓衡委員会委員長の報告を受けて、全会一致で神山和雄を第1区長候補者に推すこととなった(第2、第3候補者は、遠藤吉平、平出喜三郎)。だが、神山和雄に辞退された。新聞は神山候補の考えと一部議員の意向に隔たりがあったと報道するのみで、真相の想定すら語っていない。区長選の難航と渋谷助役も任期を終えるために、先に助役を選挙してはとの意見さえ出る始末であった(11月24日付「函新」)。 再度仕切り直しとなった銓衡委員会は、11月29日に開催され、渋谷助役を推すことを決定した。12月1日、議員協議会が開かれて渋谷助役が区長候補者に選ばれ、翌2日、区長候補者および助役の選挙区会が開催された。21名が出席し、渋谷金次郎は20票を得て第1区長候補者となった(第2候補者は遠藤吉平、第3候補者は平出喜三郎)。「函館新聞」は区会の翌日、欠席者多数で開会不成立寸前だった前回の「不定裁」に比べると「今回の区会の区長選挙が円満に終了し得たるを喜び、区会議員の思想に進歩の傾向あるを認めざるを得ず」と評した。同時に助役選挙も行なわれ、前函館警察署長末永長吉が満票で選ばれた。渋谷区長の裁可は12月20日で、末永助役の認可は12月14日であった。難産ともいえる選考経過を経て誕生した渋谷区長であったが、任期途中の大正7年9月20日に病躯を理由に辞表を提出した。議員協議会は慰留に努め、翌年度予算編成を終える翌年1月までの一時留任となったが、12月には後任区長の選考が開始された。しかし、区長候補者名が取り沙汰されないまま推移し、渋谷区長の辞職同意区会が2月8日に開催されることとなった。ところが、8日当日は出席議員少数のため流会となり、3月1日、ようやく16人の議員が出席して区会が開催され、区長の辞職に同意が与えられた。29日、内務大臣は渋谷区長の辞任を認可し、同時に函館区会に区長候補者3名の推薦の指令を発した。 |
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