通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第1章 露両漁業基地の幕開け 党派の軋轢と区長問題 |
党派の軋轢と区長問題 P33−P35 この指令を受けて区会は区長候補者選考を進めたが、まとまる方向には進まず、区会を二分する憲政会系の公正会と政友会系の北門倶楽部は乖離するばかりであった。公正会は、山形県出身で警視庁を振り出しに群馬県、大分県、山口県各県の知事を務めた黒金泰義を推したが、北門倶楽部は反対を貫き議員協議会も開けない状態であった。そこで公正派は年長議員による招集という一策で、6月23日、過半数(区会議員総数は30人で当時は3人欠員)に満たない14人の出席で議員協議会を開催、投票により黒金泰義(得票13票、白票1票)を第1候補者に選び、区長候補者選挙を30日に設定した。しかし当日は13人のみの参集で流会となった。そこで区制第66条(区会ハ議員定数ノ半数以上出席スルニ非ザレバ会議ヲ開クコトヲ得ズ、但シ同一ノ事件二付集会再回二至ルモ議員仍半数二満タザルトキハ此限リニ在ラズ)により7月2日再び選挙会を開いた。無記名投票で候補者の選挙が行なわれ、第1候補者選挙には予定通り黒金泰義が選ばれた。得票は満票の13票であった(第2、第3候補者は三坂亥吉、高橋倉太郎)。9月30日裁可が下り、黒金泰義(52歳)が第7代目の区長となったが、「果して自治制に新例を作るか」といわれたほど、異例中の異例といえる区長選であった。ところが翌9年5月、黒金区長は本籍地山形県から衆議院議員に立候補して当選、函館区長職を降りることになってしまった。このため次の区長候補者捜しに苦慮する状態が続き、銓衡委員の選挙が実施されたのは大正10年1月24日の区会であった。この時期帝国議会では、沖縄県と北海道に市制の実施を図る法律整備が審議されていたので、4月には北海道にも市制が施行されると見通して、市制施行後に市長選挙を行なってはとの意見もあった。もっとも市制施行の前提となる道会法の整備が貴族院で審議未了となってしまい、市制が施行されたのは沖縄県だけであった。 このような閉塞状況が続く中、半年以上も区長代理を続けることになってしまった末永助役は3月に辞表を提出した。黒金区長の銓衡以来乖離状況にあった北門倶楽部と公正会の協議が進まず区長の選考は未了状態に陥っていたが、まず助役の後任を決めることで一致し、22日の区会で末永助役の退職同意がなされた。次いで25日、道庁は末永助役退職認可と同時に函館支庁長安東重起を函館区助役職務管掌に任命した。27日の議員協議会で、北門倶楽部が推す西岡実太が満場一致で助役に推薦され、安東重起函館区助役職務管掌のもとで29日に区会が開かれ、助役に選出された(4月7日道庁認可)。新助役となった西岡実太は岡山県の生まれで、樺太庁理事官として財務畑を歩いた人で、前職は東京市道路局庶務課長で、函館に赴任した時37歳であった。 内務大臣から区長候補選挙を督促されていたが、函館区会は結局助役選挙のみで区長候補を選考出来ずにいた。西岡助役の昇任説、新任区長説が飛び交っていたところ、樺太庁で西岡の同僚であった尾崎道庁内務部長が北門倶楽部の議員に西岡昇任を勧めた。6月8日、銓衡委員会が開かれ西岡助役の昇任が提案され、続く10日の継続会で無記名投票が行なわれて西岡昇任が多数を占めた。そこで16日に区長推薦区会が開かれたが、西岡助役の昇任に反対する公正会議員の攻勢に押されて、選挙は翌17日に持ち越された。17日の区会は26人の議員が出席して開かれた。松下議長がようやく第1区長候補者の選挙へと進行させて投票が行なわれた。西岡助役は19票(渡辺熊四郎が6票、「ノー」と書かれた無効票が1票)を得て当選した。ちなみに第2、第3候補者は松下熊槌(得票14票)、岡本忠蔵(得票16票)であった。前日の混乱はこの第2第3候補者を明確にしないまま西岡助役の昇任を提案したためであった。西岡実太は第8代目の区長となった(裁可7月7日)。翌大正11年北海道にも市制が施行されて、西岡区長は市長職務代理者となつたが、初の市会議員選挙で彼を推していた北門倶楽部の議員が破れたため、議員選挙直後に辞表を提出して函館を去っていった。初代から8代におよぶ歴代区長ならびに彼らに仕えた助役・収入役の就任一覧を表1−8に掲げた。 |
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