通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第2章 高度経済成長期の函館 造船・北洋関連産業の不振 |
造船・北洋関連産業の不振 P439−P443 第1章第3節で、昭和20年代から30年代初頭の函館の工業界を概観した。ここではそれに続く時代をみることにする。大きく動きをとらえてみると、敗戦後、「俄(にわか)景気」と呼ばれる好況期があり、さらに北洋漁業再開で勢いのついた函館の工業生産額の伸びは、昭和33(1958)年頃から停滞し、それが回復するのは38年頃からであった。以後40年代は比較的順調に推移したが、昭和48年の第1次オイルショックをきっかけとし、長期低落傾向が続いたのである(図2−26参照)。この流れにそって、具体的な函館の工業界の動向を述べてみよう。下図をみるとわかるように、昭和38年までは36年を除き製造業の対前年伸び率はかなり小さく、34年にはマイナスとなった。昭和34年といえば、全国的には岩戸景気といわれた好況であったにもかかわらず、函館市の工業が低迷した理由は、造船関連ならびに北洋関連産業の不振に原因があった。
一方、そのほかの中小の造船所は沿岸漁業の不振と漁船の鋼船化の波に乗れず、一部の業者は機械製造へ、あるいは函館ドックの下請へと移行した。なかには、鋼船建造が可能であった日魯工業、西浜造船、函東工業のように、北洋サケ・マス漁業の裏作(北洋出漁期以外におこなう漁)である、マグロ漁の漁船の建造があって、比較的順調な企業もあったが、輸送用機械器具工業の出荷額は全体として停滞したままであった(富岡由夫・大島聰範・井上平治「戦後の函館の機械工業の動向と産業遺産としての工作機械群『函館の産業遺産』2号、以下「函館の機械工業の動向」)。
同社は33年以降、三井物産より経営トップを迎えて、新しく漁網の輸出という分野を開拓するなどして、業績の向上を図った。表2−22でみるように、昭和36年の生産額では、輸出用漁網がサケ・マス流網用を上回るに至った。しかし、サケ・マス漁網市場(とくに北洋漁業用)は同社のお家芸の優良市場であったから、その生産の落ち込みは輸出用漁網が増加したといっても、カバーし切れるものではなかったのである。北洋漁業向け漁網の減少を補おうと、「中部サケ・マス流網」や「農業用防風網」などの新規市場を開拓したり、産業用機械資材の仕入れや販売にも手を伸ばしたが状況は厳しかった(同前)。
北洋漁業は毎年、ソ連との漁業交渉が難航し、また日本水産株式会社や日本冷蔵株式会社など大手水産会社の函館支社が昭和36年には札幌へ移転する情勢であって、先行きが懸念されていた(昭和36年6月10日付け「道新」)。そのため、北洋関連産業は北洋一辺倒からの脱却を図り始めることになるのである。早くも昭和34年に「北海道新聞」は、「北洋依存に再検討 基地函館先決問題は減船対策」という見出しでこの問題を取り上げている(6月3日付け)。これによると35年以降、程度の差こそあれ減船は必至で、漁網、漁具、空缶、魚箱など関連産業の多い函館の受ける痛手は大きく、北洋漁業縮小でプラスになるという産業は何ひとつないと述べている。ちなみに北洋漁業以外に活路を求めた缶詰機械器具工業の場合、ソ連国営企業より缶詰機械の大量発注があったため昭和33年の出荷額11億円が、37年には19億円に増大した。また缶詰用の空缶を製造する北海製缶は、主力の北洋サケ・マス缶詰用のほかに、クジラ、サンマ、アスパラガス用空缶の製造を開始した。北洋サケ・マス用空缶の占める割合は、昭和37年には、27年の北洋漁業が再開した当初の数年間に比べ7割にまで落ちたが、金属製品工業では33年の出荷額7億円が37年には9億円へと上昇した(前掲「函館機械工業の動向」、『函館市統計』21、『函館市統計季報』46)。とはいえ、これらの業種が函館の工業出荷額に占める位置は低かったので、造船と漁網の低迷を補えるものではなかった。 函館市の工業出荷額は道南地方(渡島・檜山支庁管内)の7割に相当しているが、これまでみてきたように函館の工業界の不振により、道南地方全体での昭和33年に対する37年の工業出荷額の伸び率は、全道平均の85パーセントに対して41パーセントにすぎなかった(各年『北海道統計書』)。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「函館市史」トップ(総目次) | 通説編第4巻第6編目次 | 前へ | 次へ |