通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第2章 高度経済成長期の函館 公害問題と企業の対応 |
公害問題と企業の対応 P454−P455
その問題を中心に北海道日産化学函館工場(北浜町)のこの時期の動きをみておきたい。同社は、肥料需要の高度化に対処するために、昭和38年10月には、6500万円を投じて高度化成工場への改造工事と農薬粉剤工場の新設をおこなった。そして、この年の12月に、東京本社の過燐酸部門分離の方針により独立することになり、資本金1億円の北海道日産化学株式会社が誕生した。従業員は307人、うち臨時工は145人であった。39年度の売上高は約18億円、うち過燐酸石灰は9億7000万円、数量は7万7000トンであった(北海道日産化学函館工場提供資料)。 昭和39年と40年の2か年間にわたり、中国へ合計2万6600トンの過燐酸を輸出している。40年には石炭から重油燃焼に転換、41年には1億4400万円で高度化成工場を新設した。42、3年の北海道は史上最高の豊作で高度化成肥料が消費の中心となり、売上金額では過燐酸の2倍となった。44年の同社の規模は、従業員は236人、うち臨時工96人、売上高は29億円に達した(同前)。 このように業績が伸張する一方、公害問題が表面化してきた。クローズアップされたのは、同社高度化成工場から出る排気ガス(亜硫酸ガス、アンモニア、窒素酸化物など)で、近隣に住む住民がのどや肺の炎症を訴えていた。市議会でもこの問題が取り上げられ、行政側も対策を迫られることになった。昭和45年と46年を中心に、新聞には、この問題が何度も取り上げられているので、いくつか関連記事を紹介しておこう。「肥料工場公害もう我慢できぬ 住民が初の団交」という見出しの記事では、市の職員とともに近隣住民が直接工場長に面会し改善を訴えたことが紹介されている(昭和45年6月7日付け「読売」)。この際に住民と工場と市の3者で協議会を設けることが確認された。その一方、6月17日には追分、北浜、港3町の住民による北海道日産化学公害防止被害者協議会も誕生している(7月12日付け「道新」)。3者協議会のほうは7月3日に初会合をもったが、公害対策施設の完成まで減産を求める市民と、需要期でそれはできないという工場側とは、平行線のままであった(7月5日付け「道新」)。しかし、8月には硫酸工場の一時操業中止や、煙突のかさ上げ工事、有害物質の水洗装置、排出ガスの希釈装置など、公害防止施設の工事が始まった(8月12日付け「毎日」)。函館の企業としては初めて北海道公害防止施設改善資金1000万円を借り受けての工事で、11月20日に各設備が完成した(12月4日付け「読売」)。 その後函館市は、付近住民の健康被害は日産化学工場に由来する公害病と断定するのは困難であるとの正式見解を示しながらも、日産化学との公害防止協定締結に向け、3者協議会を続行した。こうして函館市としては第1号となる公害防止協定が昭和46年12月8日に調印された。協定の内容は住民も立ち入り調査に参加できるという点や、被害の補償が明記されている点で、住民の意向がかなり反映されたものとなった(昭和46年2月21日付け、12月9日付け「朝日」)。なお、昭和46年には、63年の歴史をもつ鉛室硫酸工場が閉鎖された。 |
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