通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第2章 高度経済成長期の函館 水産食品工業の伸展
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水産食品工業の伸展 P449−P451 これまで函館の食品工業を支えてきた菓子工業にかわって、業績を伸ばしたのがイカ珍味などの水産食品工業であった。一時期、道南・東北で生産額第1位を占めていたビスケットが昭和37年頃、出荷額40億円に達してから売行き不振となり、38年には道産製菓は会社更生法の指定を受け、40年には帝国製菓が仙台工場を閉鎖、45年には企業倒産となっている。不振の理由は、輸入自由化によるバナナの大量出回りと値下がり、イカ珍味などの代替品との競合、消費者の嗜好が高級化、洋風化と変化したこと、ビスケットの供給過剰による販売競争の激化などであった。残った菓子メーカーは明治製菓函館工場と国産製菓、その他小規模な工場であった(昭和45年7月10日付け「道新」、柴山健太郎『お菓子の経済学』)。
「魚体蛋白(フィッシュ・ソリュブル)」の生産では、全国シェアの3割を占める日本化学飼料株式会社は、水産資源に依存する企業であって、昭和30年代前半には、直営工場を釧路、稚内、紋別に建設、さらに協力工場を網走、八戸に設置して、順調にSP飼料(200頁参照)の製造を伸ばした。38年の売上高は10億円、これが50年には137億円に達した。飛躍的成長である。昭和30年創業以来の対象資源だったイカは漸減したが、40年以降、北海道、東北のサバ資源が増大し、また北転船の水揚げによるスケトウダラを対象資源とすることができた。そして、40年代前半には、根室、厚岸、小樽、網走にも魚体蛋白処理工場が設置された。後述するとおり、この頃、公害に対する市民の苦情が大きな運動をおこすようになったが、水産加工過程における水質汚濁公害や悪臭が問題視されていた。そこで魚の内蔵を処理するという同社のプラント設置の要望が各地で強かったのである。なお、同社では昭和42年以来、悪臭対策として、電極式脱臭装置を備え付けるなどの対策をおこなった(『日本化学飼料二〇年史』、昭和45年9月27日付け「道新」)。 未利用資源の完全な有用化が同社の方針であって、飼料部門のほか、マーガリン原料油、コレステロール(液晶)などの油脂部門、さらに米油、エキスの食料部門と多角化のステップが40年代に展開されて、広く全国から革新的企業と注目される工場に成長した(『日本化学飼料二〇年史』)。 |
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