通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第2章 高度経済成長期の函館
第3節 函館の産業経済の変貌
5 高度経済成長期における函館工業界の実情

造船・北洋関連産業の不振

失業多発地帯という環境

海運市況の復興と造船ブーム

水産食品工業の伸展

臨海工業地帯の造成

公害問題と企業の対応

北洋関連企業の消長

転換期を迎えた工業界

函館を支える食料品製造業

落ち込む輸送機械工業

一般機械工業の動向

工業構造の転換による明暗

失業多発地帯という環境   P443−P445

 ここで道内の他地方と比較して、函館を中心とした道南の工業の特徴をあげておくことにする。第一は業種がバラエティに富むことである。道南は北海道ではもっとも早く開けたところで、工業の基礎は明治から大正にかけてできあがったといえるが、道南地方全体の工業出荷額に対して、5パーセント以上の業種は食品、造船、製網、セメント、石油精製、製材の6業種であって、道央の5業種、道東、道北の3業種を上回っている。
 特徴の第二は、北洋関連、水産関連の業種では操業の季節性が強いことである。このために、労働集約的構造となり、操業の季節性を雇用労働力(とくに女性労働力)で調整することになる。昭和34年5月を例に取ると、北洋向けの製網業が終了したので離職者が増え、前月は2301人だった求職者が、5521人へと跳ねあがったのである(昭和34年6月17日付け「道新」)。第三は加工度の低い業種が多いことである。加工度の高い製品は本州から移入することになり、業種間の有機的関連、広がりに乏しい。このような函館を中心とする製造業の成立を支えてきたのは、道南地帯の豊富な労働力の存在とその低賃金雇用にあったといえる。
 このような工業界の特徴が労働事情に反映し、臨時工、季節工、日雇労務者、失業者が多かった。函館市の総予算中、失業事業対策費の構成比は高く、とくに昭和32年から38年まではつねに10パーセントをこえ(表2−23)、全国でも有数の失業地域であった。そのため、失業多発地帯の指定を受け、昭和34年4月には政府は函館市に9億3940万円の公共事業費を支出し、1日平均308人の失業者を吸収しようとした(昭和34年4月24日付け「道新」)。失業保険金支給額も増大し、これを第4次産業と呼ぶ声もあった。昭和38年に函館職業安定所が調べたところでは、10月末で出稼ぎに出た季節労務者2万3600人のうち、建設関係が7割をこえ、水産加工が1割ということであった(昭和38年11月28日付け「道新」)。そして、この頃から道南地帯の労働力の本州方面への流出が顕著となったため、従来労働力の供給地(出稼ぎ)であったところにも人手不足の現象が表われ、37年の賃金は高騰した。
表2−23 函館市予算に占める失業対策事業費
                                  単位:百万円
年度
昭和31
32
33
34
35
36
37
38
39
一般歳出合計
失業対策事業費
占有率(%)
1,795
156
8.7
1,965
206
10.5
2,066
257
12.4
2,230
283
12.7
2,388
295
12.4
2,678
330
12.3
3,095
351
11.3
3,491
370
10.6
4,069
373
9.2
『函館市史』統計史料編より作成
表2−24
市民所得総額に占める製造業比
             単位:百万円
年次
製造業
総額
比率(%)
昭和35
36
37
38
39
40
41
42
43
44
45
46
47
48
49
50
6,108
7,514
8,121
10,686
12,280
11,113
13,048
13,959
15,323
16,559
21,524
21,272
27,753
31,858
40,037
42,922
30,201
36,094
40,239
46,747
52,708
60,584
70,134
79,196
93,596
102,152
139,475
157,051
195,723
255,681
310,989
341,646
20.2
20.8
20.2
22.9
23.3
18.3
18.6
17.6
16.4
16.2
15.4
13.5
14.2
12.4
13
12.6
『函館市統計季報』63・72、昭和54年版『函館市統計書』
 昭和38年からのおよそ10年間は、製造業が全体として順調に発展した期間であったとみることができるが(前掲図2−26参照)、函館市の産業全体としてみると、昭和38年に対する48年の生産所得倍率は5.5倍であったのに対して、製造業の生産所得倍率は3倍に過ぎなかった。製造業所得が市民所得総額に占める比率は、30年代には20パーセントを維持していたが、40年代以降は10パーセント台をどんどん下降していったのである(表2−24)。この表からは製造業の占める地位の低下が如実にうかがえるが、製造業自体の生産額は、比較的順調に伸びているのである。この現象は、第3次産業の肥大化が招いたもので、50年代以降はもっと顕著になる。電力消費では大口(大規模工場)が横ばいで、小口(小規模商店・工場、中規模工場)および業務用(事務所・ホテル・スーパー等)の伸びが大きく、函館地域の産業構造が第3次産業優勢となったことを裏付けている。昭和48年の業種別の出荷額比率を示したが(図2−27)、これからもわかるとおり、やはり食料品工業と輸送用機械工業が大きな比率を占めている。食料品工業のなかでも水産関連工業が順調だったこと、そして海運市況の回復で函館ドックが躍進を遂げたことが特徴である。
 なお、詳細は後述するが、昭和40年に完成した上磯町と函館市港町にまたがる七重浜臨海工業地帯の造成や「函館圏総合開発基本計画」といった一連の地域振興計画もこの時期の工業を語るうえで、重要なポイントであった。
 戦後の北海道開発政策では、道央、道東地域の開発が道南に先行して進み、新産業都市の指定でも函館市がもれたこともあり、道内における地位の相対的低下はさけられなかった。昭和38年にようやく道南地域が第2期北海道総合開発計画の拠点対象に指定されて、函館開発建設部の事業費が毎年増大したことや、青函トンネルの完成(当時は53年頃予定)に備え、函館市が(財)日本工業立地センターに都市診断を委託して(昭和40年)、函館地区開発の基本的方向が41年に勧告されたこと、また、これを受けて45年に函館市では隣接4町と協調しつつ、地域開発の指針となるべき「函館圏総合開発基本計画」を策定したことなどが、地域振興のインパクトとなったことはいうまでもない。この10か年計画で、港湾機能を生かした総合的な産業都市の形成を目標としたが、その大きな柱は七重浜から矢不来を埋め立て、重化学工業を誘致して中規模の臨海工業団地(矢不来コンビナート)を造成することであった。それが実現しなかったことは、すでに言及されているとおりである。
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