通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第2章 高度経済成長期の函館 臨海工業地帯の造成 |
臨海工業地帯の造成 P451−P454
この中心となったのは函館市とともに上磯町が誘致した北日本石油株式会社函館製油所であった。同工場は昭和31年に北日本石油が設備資金17億円を投下して建設され、操業が開始された。年間生産能力60万キロリットルの石油精製工場である(『北日本石油株式会社経歴書』)。石油の道内需要は45万キロリットルといわれるが、日本石油(室蘭)が54万キロリットルの生産能力をもつので、設備過剰の傾向であった。32年には丸善石油の傘下に入っていたが、35年に亜細亜石油(本社東京)と合併して、新亜細亜石油函館工場となり、39年から社名がアジア石油と改められた。同社の函館工場は、39年にLPG回収装置の新設(14億円)から設備投資がはじまり、42、3年にわたって、常圧蒸留装置をそれまでの日産1万2000バーレルを2万5000バーレルに倍増、さらにガス洗浄装置、原油・製品タンク増設、出荷桟橋、原油海底管の敷設など24億円の投資があった(『アジア石油株式会社概要』、『上磯町史』下巻)。
同じ上磯町にある日本セメント株式会社の上磯工場も、重要な核となる工場で、北海道におけるセメント市場を富士セメント株式会社(室蘭市)と二分するものであった。以下、『日本セメント株式会社百年史』と後に合併した太平洋セメント株式会社からの提供資料によって上磯工場の概要を述べておく。 同工場は、昭和38年の生産量が65万トンで出荷額が45億円であったものが、48年には198万トン・87億円に達した。会社全体の生産量の20パーセントに近い生産実績である。無尽蔵といわれる石灰石を埋蔵する上磯町の峩朗鉱山から工場までの運搬は電気鉄道によっていたが、48年には6.2キロメートルの長距離ベルトコンベアに切り替えた。すでに45年には上磯の海岸から1600メートルの地先まで出荷桟橋を建設して、2万トンクラスの運搬船の着船が可能となり、山と海が直結する工場となった。昭和40年にセメント業界は不況業種として行政指導を受け、3年間の設備投資休戦を申し合わせたため、40年の稼働率は60パーセントに落ちている。しかし、42年からは設備増強がはじまり、回転窯と原料・仕上ミル(粉砕機)など数十億円の投資で、設備能力のバランス是正が図られている。41年には燃料炉を石炭から重油に転換し、45年にはコンピューターで工場を管理するPCCシステムが導入された。 戦後の従業員数の推移をみると、昭和24年まで500人台を維持したが、44年までに400人台となり、51年までには300人台へと省力化が進んだ。鉱山の方も昭和33年までの100人台が、それ以後は50人台に半減した。 公害問題が取り上げられた昭和40年代に、環境対策として、原料石の採掘方法にも環境保全方式を取り入れ、また工場からもたらされる大気汚染については、上磯町の厳しい監視下で基準以下となっている(『上磯町史』下巻)。 |
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