通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第2章 高度経済成長期の函館
第3節 函館の産業経済の変貌
5 高度経済成長期における函館工業界の実情

造船・北洋関連産業の不振

失業多発地帯という環境

海運市況の復興と造船ブーム

水産食品工業の伸展

臨海工業地帯の造成

公害問題と企業の対応

北洋関連企業の消長

転換期を迎えた工業界

函館を支える食料品製造業

落ち込む輸送機械工業

一般機械工業の動向

工業構造の転換による明暗

海運市況の復興と造船ブーム   P445−P449

表2−25 函館ドックの経営状況の推移
                               単位:百万円
年度
昭和39
40
41
42
43
44
45
売上高 新造船
修繕船
陸上
6,786
1,132
2,046
8,295
1,218
2,354
8,217
1,580
2,015
8,939
2,108
2,792
13,612
1,560
3,707
16,596
1,955
4,108
17,671
2,620
4,640
合計
9,964
11,867
11,812
13,839
18,879
22,659
24,931
労働者数(人)
2,355
2,416
2,509
2,712
3,014
3,120
3,213
年度
46
47
48
49
50
51
52
売上高 新造船
修繕船
陸上
28,137
2,547
4,665
22,742
3,204
3,580
28,997
3,204
3,580
35,455
4,759
6,750
35,768
4,308
9,103
41,350
4,963
8,172
28,147
4,718
6,125
合計
35,349
29,526
38,486
46,964
49,179
54,485
38,990
労働者数(人)
3,283
3,267
3,274
3,488
3,447
3,373
2,764
各年『函館ドック株式会社営業報告書』より作成
 では、輸送機械工業から具体的にみてみよう。昭和38年から海運市況が回復し、第2次輸出船ブームが到来し、引き続き40年から46年までは第3次輸出船ブームといわれる好調期が続いた。函館ドックはこの時期に設備の拡大を図り、6万トンクラスのバラ積み貨物船(穀類木材などの運搬船)建造からはじまり、タンカー向けの30万トン修繕ドックおよび建造ドックの新設という巨大な投資を敢行した。昭和39年から52年までの経営状況を表2−25に掲げたが、売上高のピークが51年(545億円)、労働者数のピークが49年から50年であったことがわかる。以下に函館どつく株式会社百年史資料室所蔵の資料ならびに運輸省海上技術安全局監修『造船統計要覧』によって、詳しく内容をみておこう。
 新造船の受注は輸出船中心で、得意のバラ積貨物船は、二八型といわれて載荷量2万8000トン前後であるが、同型船がこの頃から昭和59年までに59隻建造されている。欧州船主に大変人気があり、載荷量が多く使いやすい船で、中古船市場では1割高いといわれていた。また「ミニバルカ」と呼ばれる3100トンクラスの河川運搬船も多数建造され、アメリカ内水海面で使用されていた。そして「パナマックス」と呼ばれたパナマ運河を通過できる最大の船(7万4000トン)が建造される昭和41年からは、造船所としての格があがったといわれたのである。
 また国内船では、これまですべて本州の造船所で建造されてきた青函連絡船が、初めて函館ドックで建造されたのが、昭和39年のことであった。第1船は松前丸(総トン数7800トン、18億4000万円)である。本州の造船所で建造された同型連絡船にくらべて、トラブルがなく、船の震動も少ないといわれる優秀船であった。
 そのほか、国の内外で実力の認められている特殊作業船の建造もあって、新造船部門の売上高は昭和43年度に100億円をこえた。38年度から45年度までの設備投資額は約40億円で、船台の拡張、乾ドックの延長、岸壁の延長、その他の合理化投資であった。もっとも、新造船部門の収益率は低く、とくに昭和38年から39年頃は価格を低くして売上高を伸張させるのが方針であったから、38年の総資本利益率は0.45パーセント(同業他社、3.1パーセント)にすぎなかった。
 第3次輸出船ブームとなった昭和42年には、選別受注ができるようになったので、総資本利益率は0.6パーセント(他社1.7パーセント)とわずかに上昇した。これは、38年、39年の赤字受注船の引き渡しが終わり、二八型を中心とする同型船効果、量産効果と、金融緩和による金利の低下、輸出船建造資金貸出取引の開始などにより、ようやく適正マージンが確保できるようになったからである。売上高利益率をみると、38年の1.1パーセント(他社5.5パーセント)が、41年には2.7パーセント(他社2.9パーセント)と好転した。
 収益率に寄与したのは修繕船部門であって、収益率は15から16パーセント、しかも代金は早期回収ができた。修繕船部門を担当する函館ドック下請協同組合(21社)の売上高は年間6億円であった。陸上部門は39年から「上陸作戦」と称して、鉄構工場も新設したが、新造船ラッシュのため、陸上部門生産の8割を占める室蘭製作所の乾ドックが16年ぶりで造船にあてられるようになり後退した。鉄構製品の機種も新規開拓はやめて、官公需が中心の橋梁、鉄骨およびタンク、ボイラーを主とするようになった。ただし、ボイラーは競争が激しく利益はなかった。
 ともあれ、人件費の高騰に対処して、社外工の比率を高めたが、設備、規模の拡張に応じて、地元の下請企業の増強と組織化を図った。昭和42年頃で、人手中心の社内外注が60社、物が中心の社外外注が20社、計80社の年間発注額は16億円となっている。育成を図った系列企業には、函館工機、川村造船鉄工、本郷組などがある。

30万トン級タンカーの建造風景(函館どつく株式会社百年史資料室蔵)
 昭和44年度期末には受注残高(手持工事量)は2年分があり、株主配当も8分とすることができた。この44年末に、25万重量トン修繕ドックの建設方針が決定されている。当初は10万トンくらいのドックを予定していたが、建設資金に大きな差がないため25万トンとなったということである。大手造船が超大型船の建造に向っている間隙をつき、準大手にのし上がろうと考えたとも、また全国的には函館ドックの計画する修繕ドックに匹敵する大きさのドックが中小造船所でつくられ、函館ドックの修繕工事量が減少する恐れがあるとも考えられたといわれる。建造ドックを新たにつくるとなると、運輸省の許可が困難なこと、工場面積の不足、大量の新規労働力の必要性が生じるので修繕ドックに決定したのであるが、1年をおいて建造ドックをつくる方針となって、この44年から46年にかけて社運を賭けた巨大投資計画が決定されたのである。修繕ドックと建造ドックの建設の内容は表2−26のとおりである。なお、運輸省から大型建造ドック許可の際に、大手造船との提携を条件とされたため、日本鋼管と業務提携をするが、資本的にも芙容グループ(丸紅、富士銀行、日本鋼管)に属する。
表2−26 新設したドックの概要
 
着工年月
海面埋立規模
要資本額
完成年月
修繕ドック
建造ドック
昭和45年6月
昭和47年2月
6.6万平方メートル
10万平方メートル
36億円
150億円
昭和47年7月
昭和49年8月
函館どつく株式会社百年史資料室提供資料より作成
 新造船の受注は昭和46年以降、3年分をかかえていたが、とくに47年、48年はタンカーへの狂乱的発注が世界的現象としてあらわれた。函館ドックの売上高に占める輸出比率は、昭和48年で75.3パーセント。これは全国造船業界中第1位、東証第1部上場会社中第5位であった。しかし、多額の外貨債権をもっていたため、46年末以降の通貨調整による為替差損は大きく、46年度から53年度までに、特別損失勘定に為替差損として毎期計上された金額の合計は、143億円に達している。
 なお、輸送用機械以外の鉄工・機械製造業の生産額は、30代は20数億円、40年前半は40数億円であった。受注先別でみると、造船関連には、船舶補機、煙突、タラップを生産する大幸機動興業所、港工作所があり、北洋関連には、缶詰機械、揚網機を生産する正和工機、宮古工業社があった。また、北洋一辺倒からの脱却を図って、地域外の大手の下請けとなった本間鉄工場(東洋製缶)は製缶、缶詰機械を製造し、村瀬鉄工所(久保田鉄工)は水道異型管を製造した。独立専門メーカーとしては、合板機械で全国シェア2位のウロコ製作所、炭鉱向け超合金工具(ビット)では道内シェア80パーセントの登喜和産業(トキワ製作所)があった。また、自動イカ釣り機では全国でトップのシェアをもつ東和電機製作所があった。上述の各工場は、地域内の主要業種に関連して発達した歴史をもつが、北洋の先細り、道内市場の狭隘など立地条件の不利を克服するために、需要地の近くに工場を建設した企業として、村瀬鉄工所(札幌市)、ウロコ製作所(平塚市)、登喜和産業(鴻巣市)、日魯工業(横浜市)、富岡鉄工所(室蘭市)などがあった。このほか、地元の主力産業である水産加工業をはじめ、広く各地に加工、調理機械を供給するタイヨー製作所ほか数社の工場があった(前掲「函館の機械工業の動向」、その他各社提供資料による)。
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