通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第7節 都市の生活と新しい文化 5 芸術分野の興隆 アポロ音楽会 |
アポロ音楽会 P861−P863 函館は近代日本の「洋楽発祥の地」であった。中村理平氏の研究によると、幕末から明治の初めにかけて函館ハリストス正教会のロシア人サルトフが指導して、日本人の信者に日本語による聖歌を合唱で歌わせていたことが洋楽導入の最初であったという(平成5年10月13日付「道新」)。また、ペリー来航から箱館戦争に至る軍楽隊やラッパなどを通じての洋楽受容の軌跡は、函館が日本の洋楽の先進地であったことを物語っている(清水信勝『函館洋楽器事始』)。その後、明治期にはハリストス正教会の聖歌隊や禁酒運動の伊藤一隆による函館音楽隊の活動があり(前川公美夫『北海道音楽史』)、後年には明治42(1909)年に開館した函館図書館を後援するための音楽会などがたびたび開かれ、慶応義塾ワグネルソサイテー(同42年8月12日付「函毎」)や東洋音楽学校出身者のフィルハーモニーオーケストラバンドが迎えられている(同44年9月24・26日付「函毎」)。
大正期のアポロ音楽会の活動を追ってみよう。大正2(1913)年8月に東京音楽学校教官一行を迎え、会のリーダーである工藤も出演したのがアポロ音楽会の第1回の演奏会だった。以後年2回のペースで音楽会が開催された(表2−204)。同2年11月には会員が出演した最初の演奏会が開かれ、翌3年には、ラング(聖公会長老)夫人、中川則夫(上磯小学校)、手塚保子が会に加わった。手塚は旧姓小笠原で、東京音楽学校でハンカ・ペツォールドに声楽を学び、日本基督教会函館教会牧師の儀一郎と結婚、来函を機に入会したが、同6年12月夫のカナダ留学のため退会した。3年7月の慈善音楽会では工藤作曲の「夜の曲」が披露され、以後毎回のように工藤の曲が紹介された。5年5月の第8回頃からは区内の先生、生徒の出演が増え、10月の第9回では、ロシア領事夫妻提供による蓄音器を使って世界的音楽家の演奏による名曲が会員らに披露された。 アポロ音楽会は5年夏に自前のピアノを購入している。公会堂にはピアノが無いために演奏会の都度函館高等女学校から借りていたが、アポロ音楽会の顧問であった阿部覚治によれば、開通したばかりのパナマ運河を通過した米国の第1船が函館に入港した際に、船内に取り付けてあったピアノを引き取って、工藤富次郎宅に運んだものだという(『ニコニコクラブ』昭和2年10、12月号)。
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