通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第7節 都市の生活と新しい文化 5 芸術分野の興隆 映画と楽士 |
映画と楽士 P868−P869 大正期の映画は無声で、弁士と楽士が不可欠であった。大正8年頃から北上美芳がキネマ音楽部を充実させて管弦楽を演奏し、同13年には錦座の徳永徳次郎、錦輝館の三俣保暁といった楽長の名前が、休憩奏楽の曲名と共に新聞の広告に掲載されるようになった。昭和に入り、3年には錦輝館が、東京の日本交響楽協会のバイオリン奏者木村保を迎え音楽部の陣容を強化した。しかし次第にレコードの使用が増え、楽長の役割はレコードの選曲担当に変わり始めた。そのため木村は、同5年に同館の楽長となるが同7年には退職し、同年末には出身地の札幌に戻ってしまった(同7年5月3日・12月13日付「函新」)。7年には浅草や神田の映画館で、トーキー導入に対し弁士や楽士が生活擁護を訴える争議を起こしたが、時代の流れを止めることはできなかった。昭和9年の大火で市内の娯楽機関はほぼ全滅した。そしてトーキー全盛時代に移り、「一九三一、二年ボックスと称してジャズを演奏しピアノを叩き映画面に伴奏を送つて居た尊属の楽団はトーキーに追はれ追はれてボツクスを出で、愛用のコルネツトに流行歌を抱えさせて街頭に流れ出る」(函館日日新聞社『函館市誌』昭和10年)有様となった。映画館では音楽映画「未完成交響楽」「楽聖ベートーベン」などの上映が続き、同13年には名指揮者ストコフスキーの 「オーケストラの少女」が公開され、記録的な入場者数となった。昭和10年頃から、軍国主義の風潮の高まりの中、芸能人の実演が増加した。初めはレコードや化粧品、石鹸、歯磨などの宣伝を目的としていたが、外国映画の輸入制限が厳しくなると共に、次第に映画館のアトラクションとして定着した。函館でも藤山一郎、小林千代子、ディツク・ミネをはじめ、人気歌手の公演が相次いだ。8年から13年にかけて4回公演した日系アメリカ人の川畑文子はステージ・ショーの花形であった。また、同14、5年東京松竹少女歌劇、15年宝塚少女歌劇花組の公演も実現した。 |
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