通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第7節 都市の生活と新しい文化

5 芸術分野の興隆
2 音楽活動の盛行

アポロ音楽会

アポロ音楽会の解散

音楽の大衆化

ラジオ開局とコンクール

映画と楽士

新しい時代の音楽

外国からの来演

音楽教育とその活動

函館音楽協会と合唱団

戦時体制下の音楽

大正・昭和前期の来演者

音楽の大衆化   P865−P866

 大正9年8月には、函館で最初のレコードコンサート「ビクターレコード名曲演奏会」が、深瀬春一(後の函館師範学校教諭)の主催で開かれた。函館区公会堂に集まった400名の聴衆は、東京から迎えられた作曲家小松耕輔の選択と配列による名曲を聞いた。弥生小学校女生徒による三木露風作詞、小松作曲の合唱「解けし氷」「緑の小島」や小松の講演「社会と音楽」などもあり盛況だった(8月5・8日付「函新」)。大正後期には世界の一流音楽家が続々と来日したが、函館ではこれらの音楽家にちなんだレコードコンサートが盛んとなり、蓄音器、レコードもよく売れた。
 昭和3年5月から、レコード愛好会が蓄音器店の協力で、毎月、テーマを変えてレコードコンサートを続けた。途中で不定期になったが、その回数は4年間に28回を数え(同7年5月21日付「函新」)、多くのレコード愛好家が集まった。蓄音器店からはその時々の売り込みのレコードが街頭に響いていた。ジャズ全盛時代の昭和4年6月には歌手の二村定一が函館では初めての本格的なジャズの音楽会を開き、レコードで評判の「アラビヤの唄」「君恋し」などで聴衆を沸かせ、10月には、佐藤千夜子の「ジャズソングとピアノの夕」が盛況の中で開かれている。また「出船の港」「鉾をおさめて」「宵待草」などの日本の曲も売れ、演奏会ではこれらの曲が大歓迎された。市内のカフェーではこの頃からピアノを設置し、オーケストラボックスやジャズダンスの舞台を設けたり、音楽の夕を開くようになった。市内のピアノ調律師掘川定蔵によると、ピアノは彼が開業した大正11年時点では市内の小学校にはなく、全市で3、40台足らずだったが、昭和7年には、500台近くにのぼっていたという(昭和7年5月21日付「函日」)。また昭和初期は在函ロシア人によるピアノの指導も盛んだったという(昭和2年6月9日付「函日」)。これらのこともピアノの普及に関係したのかもしれない。昭和9年の大火の後は、喫茶店でのレコードコンサートが「函館の新らしい風景として」(9年12月1日付「函毎」)ファンを喜ばせた。また馬場二郎、中根宏、牛山充、菅原明朗、野村あらゑびす、野村光一らレコード会社派遣講師の解説によるレコードコンサートも増えた。
 昭和13年にはヤマコ楽器店が函館ディスク協会を設立し、毎月の洋楽レコードコンサートを始めた。函館音楽協会(後述)に解説を依頼し、同17年に函館洋楽愛好家協会と改称し、10月にはコンサート回数も延べ55回を数えた。戦時体制であったが、レコードに対する要求はむしろ高まっていた。しかし、贅沢品を追放しようという七・七禁令(「奢侈品等製造販売制限規則」)が同15年10月7日から実施され、楽器店は大きな打撃を受けた。
 函館を賛美する歌が盛んにレコード発売されるのも、音楽の大衆化の現れである。昭和6年7月にコロムビアから発売された高橋掬太郎作詞、貝塚正治郎作曲の「函館行進曲」と「函館小唄」が好評で、続いて9月には、高橋作詞、古賀政男作曲によるA面「酒は涙か溜息か」(藤山一郎歌)、B面「私この頃憂欝よ」(淡谷のり子歌)のレコードが、記録的な大ヒットとなった。高橋は函館日日新聞社の記者として、文芸欄を充実させる一方、詩、小説、脚本を精力的に発表していた。同9年の大火の後は「函館復興行進曲」(松実菱三作詞、中川則夫作曲)、「新函館小唄」(高橋作詞、大村能章作曲)、同10年の第1回函館港まつりには「函館港おどり」(長田幹彦作詞、中山晋平作曲)、同11年の第2回港まつりには「函館みなと祭」(高橋作詞、大村能章作曲)がレコード化された。また、同12年には、函館日日新聞社が募集した「函館市民歌」「函館花見踊」「函館日日新聞社歌」の歌詞当選作品を、西条八十と、当時すでに作詞家生活に入っていた高橋が審査して詞を補い、古関裕而や大村能章が作曲して、コロムビアからレコード発売した。
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