通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第7節 都市の生活と新しい文化 5 芸術分野の興隆 ラジオ開局とコンクール |
ラジオ開局とコンクール P866−P868 大正14年に東京で始まったラジオ放送は、仮放送開始まもなく聴取実験がなされるなど、函館市民の大きな関心の的であった。昭和2年3月には、開館したばかりの市民館で「楽聖ベートヴエン百年記念祭」が開かれ、阿部正雄(後の久生十蘭)の講演、五十嵐富士男、酒井武雄らによる弦楽四重奏などの演奏の後、東京放送局からの歌劇「フイデリオ」を聴取した(3月28日付「函新」)。昭和7年2月に待望の函館放送局の本放送が開始された。道内では同3年6月の札幌に次ぐ開局で、地元の音楽活動が幅広く紹介されていった。新聞は、鉱石ラジオセットが良く売れ、市民がスピーカーやレシーバーからJOVK(函館放送局のコールサイン)に耳を傾ける様子を「近代都市の誇り、空を摩す鉄骨」「ラヂオ黄金時代」と書いた(7年2月14日付「函新」)。しかし、札幌中央放送局と函館局は「本店と支店といつたやうな関係」(12年4月3日付「函新」)のため、音楽放送の回数が札幌3対函館1の割合であった。札幌では開局以来、中島オーケストラなどが常連として活躍し、同12年に結成した札幌新交響楽団がたびたび出演するなど、充実していた(前出『北海道音楽史』)。 地元の新聞社は、函館放送局開局と共にいずれもラジオ欄を充実、番組紹介に力を入れるなど、文字による音楽普及に尽くした。それ以前からも函館日日新聞は、昭和4年4月から毎週、和洋のレコード新譜の紹介や海外のレコード情報を伝え、函館新聞は、大阪の新聞社で世界的な音楽家を取材した経験を持つ白河澪に、同4年12月から1年半にわたり本格的な演奏会批評や内外の音楽事情を話題とした「音楽茶話」を担当させ函館の音楽愛好家たちを励ました。また同社の地家定綱は、音楽家の招聘に努めたり積極的に地元の音楽活動を記事に取り上げるなどした。函館毎日新聞社は8年1月に社屋を新築、講堂を音楽活動のために提供したが、翌9年の大火で焼失してしまった。 函館日日新聞社の高橋掬太郎は、同8年6月に社会部長を辞め、まもなく上京し本格的な作詞家生活に入った。その後の高橋と函館との繋がりの1つに歌謡コンクールがある。同12年8月函館日日新聞社主催で「歌謡新人コンクール」が開催された。伴奏には函館プレクトラムオーケストラ9名があたり、審査員にコロムビアから高橋と江口夜詩(作曲家)が参加した。このコンクールの入選者から施延雄(芸名瀬川伸)と加藤勉が専属歌手としてデビューした。この後同14年から3年続けて、同社はコロムビアと協力して歌謡新人コンクールを開催(いずれも高橋が審査員)したほか、函館放送局や他のレコード会社と協力して新人歌謡曲コンクールの主催や後援などをした。 昭和11年に初めて公開演奏した茂木知丈を会長とするMTGジャズバンドは、市内唯一のジャズバンドであったが、14年に管弦楽団となりバラエティ公演や歌謡コンクールの伴奏をし、16年には新興MTG管弦楽団と改称、独自に歌謡コンクールを開いた。また民謡でもコンクールが歌手誕生の舞台となった。9年、函館毎日新聞社主催の江差追分、津軽民謡競演大会の民謡では函館盲唖学校生徒の山本麗子が一等となり、ビクター尊属歌手となった。また、14年の民謡コンクール大会で、9歳の金谷美智也が一等入選した。後の歌手、三橋美智也である。 こうした音楽の商業化を示す歌謡コンクールが、太平洋戦争直前の函館に盛んであったことは注目される。 |
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