通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第7節 都市の生活と新しい文化

5 芸術分野の興隆
2 音楽活動の盛行

アポロ音楽会

アポロ音楽会の解散

音楽の大衆化

ラジオ開局とコンクール

映画と楽士

新しい時代の音楽

外国からの来演

音楽教育とその活動

函館音楽協会と合唱団

戦時体制下の音楽

大正・昭和前期の来演者

函館音楽協会と合唱団   P874−P875

 昭和9年3月の大火によって停滞を余儀なくされた函館の音楽界を甦らせ活発化しようと、同11年7月函館音楽協会が設立された。中心は函館高等女学校の根上義雄、函館師範学校の林喬木、聖保禄高等女学校の酒井武雄の3人の音楽教員である。同12年5月には第1回演奏会が開かれ、会員10名に加えて、函館初等教育研究会唱歌部員が賛助出演した。同13年6月の第2回演奏会では、非常時というので「海ゆかば」「征けよますらを」「道民奉公歌」の斉唱で幕を開けている。協会としての音楽会開催は、戦前はこの2回だけであったが、協会に集まった市内の音楽教師は函館の音楽界の中核として活躍した。
 函館音楽協会の会員はとりわけ合唱団活動で互いに競い合った。酒井武雄は、昭和12、3年と野ばら会を指揮して放送出演をしたり、函館協声会混声合唱団を組織、指揮するがまもなく解散となった。また同14年7月には、7年に発足して以来日高脩や五十嵐富士男指揮で活動してきた後しばらく休止状態にあった函館混声合唱団の指導を始め、翌15年7月酒井混声合唱団と改称し、16年9月には札幌中央放送局が選定した翼賛歌「輝く使命」の歌唱コンクール全道大会で第1位となった。酒井は少年時代に、当別トラピスト修道院で音楽理論や演奏法を習っており(11年5月31日付「函新」)、宗教音楽でも函館の第一人者であった。林喬木主宰の函館女声合唱団は、同13年12月に設立された。放送には函館金曜会の名でも出演し、函館の詩人志田十三作詞、林作曲の「トラピストの春」や童謡組曲「秋のうた」を取り上げた。同15、6年に林喬木の作品発表音楽会を開催している。根上義雄は、同15年10月に誕生した日魯会社明星会声楽部40名の女声合唱団を指導、16年6月函館放送局から初放送をしている。また佐々木幸子指揮の棒二森屋女声合唱団は、同14年10月に女店員80名で設立され、16年10月、全国勤労者音楽大会の中継放送で、北海道の合唱代表として出演した。佐々木は、武蔵野音楽学校師範科でピアノと声楽を修めた後、高木東六に師事する傍ら作曲家吉田たか子(後の久保栄夫人隆子)のアシスタントをつとめていたが昭和10年に帰函、美鈴会を主宰して子供達にピアノと歌を教授した。帰函後まもなく函館プレクトラムオーケストラの定期演奏会でショパンのワルツ、マズルカを独奏したのを手始めに、函館音楽協会にも参加して活発な演奏活動を続け、同13年から大妻技芸高等女学校の音楽担当講師となった。なお佐々木のように函館に帰ってきて音楽活動を始めたひとりに恩賀寿一がいる。彼は東京で勉学中の昭和5年、23歳で函館でピアノ独奏会を開いた。後に日本音楽学校教授を務めて、函館の新聞に音楽随筆を寄稿したりもしたが、15年に函館に帰り、市立中学の音楽担当教諭となった。昭和17年3月には、それぞれ活動していた市内の合唱団7団体約100名が、「音楽報国」を目指して函館市合唱連盟を結成、統合された。
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