通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第7節 都市の生活と新しい文化

5 芸術分野の興隆
2 音楽活動の盛行

アポロ音楽会

アポロ音楽会の解散

音楽の大衆化

ラジオ開局とコンクール

映画と楽士

新しい時代の音楽

外国からの来演

音楽教育とその活動

函館音楽協会と合唱団

戦時体制下の音楽

大正・昭和前期の来演者

戦時体制下の音楽   P875−P877

 昭和3年函館市連合青年団が、4年には函館女子青年団がラッパ鼓隊を設立した。なおラッパは函館商業学校では明治期から行進に用い、大正期のラッパ鼓隊の活動に続き、昭和4年にラッパ鼓隊部が創設されている。同じ年函館中学校でもラッパ鼓隊部が練習を開始している。市連合青年団音楽部は9年の大火で楽器を焼失したが、直ちに再興を決定、管楽器を充実、増員して、それまでのラッパ鼓隊に加えて、ブラスバンドを新設した。同12年以降は函館東郷会音楽隊が活躍、13年には軍楽隊を呼称し、60名を超える隊員を擁した。

護国神社大祭奉祝音楽大行進(『北海道写真史料保存会蔵』)
 同12年5月の招魂社祭日から函館新聞社の主催で毎年音楽大行進祭が開かれるようになった。この音楽大行進祭は、招魂社が函館護国神社に改称(14年)された後も継続し、16年には参加25団体60名で大行進祭が開かれた。また3月の陸軍記念日、5月の海軍記念日にも吹奏楽団体の音楽行進が行われた。同12年9月、上海での戦闘が伝えられる中、市と函館日日新聞社主催による「皇軍武運長久祈願愛国大行進」(9月5日付「函日」)が行われ、各団体のラッパ鼓隊が参加した。11日の太原陥落を機に、函館新聞社主催の「北支戦捷祝賀音楽大行進」(11月8日付「函新」)と提灯行列、同じく市など主催の「戦捷祝賀提灯行列」(11月15日付「函新」)が行われ、それぞれラッパ鼓隊、ブラスバンドの勇壮なる行進曲が演奏されるといった具合に、各バンドは演奏を通して戦争体制に奉仕していく形となった。
 昭和15年は紀元2600年に当たり、まず2月に函館教育会が奉祝音楽会を日魯講堂で開催した。市内の音楽家、演奏団体が総出漬して、「本市空前の音楽絵巻」(15年2月8日付「函新」)といわれた。7月には、山田耕筰と早川弥左衛門が指揮する中央交響楽団(現在の東京フィルハーモニー交響楽団)50余名が北海タイムス社の招きで来道し、各地で奉祝演奏会を開いた。北海道では初めてのプロの交響楽団の公演だった。9月にも奉祝事業の1つとして東京音楽学校が昼夜2回公演をし、宮城道雄の「紀元二千六百年賛歌」や橋本國彦の「交響曲ニ短調」を演奏した。橋本の指揮による一行は教職員、生徒合わせて150名を数えた。中央交響楽団、東京音楽学校共に、演奏会場が青柳小学校講堂だったため、「楽団自体の技量を発揮されずに終わった」(12月23日付「函新」)。11月、東京の奉祝会と同じ日に、2万人が参加して函館市民奉祝大会が挙行され、ブラスバンド、ラッパ鼓隊を先頭に「国民奉祝歌」「愛国行進曲」などを演奏しながら市内行進が行われた(11月11日付「函新」)。この月には、各学校や酒井混声合唱団、函館女声合唱団、函館市吹奏楽連盟の奉祝音楽会が続いた。
 昭和13年5月、市内のブラスバンド4団体が函館吹奏楽協会を結成した。一方、7月には函館市連合青年団加盟のブラスバンドやラッパ鼓隊22団体が函館市連合青年団吹奏楽連盟を結成し、15年11月には函館市吹奏楽連盟と改称した。16年8月には、「吹奏楽を通じ国民精神の作興情操の涵養と文化の開発」(8月17日付「函新」)に資するために両団体が合同して、市内の全吹奏楽団体を連絡統合した。指揮者としては、近藤実、山本清、田村孝史、森光栄、塚原栄之助、木沢豊朗らが活躍した。太平洋戦争開戦の12月8日を挟み、函館市吹奏楽連盟主催の「銃後奉公吹奏楽大会」(12月6日)、「戦勝祈願音楽大行進」(12月10日)が繰り広げられた。
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