通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
||
第2章 20万都市への飛躍とその現実 第7節 都市の生活と新しい文化 5 芸術分野の興隆 新しい時代の音楽 |
新しい時代の音楽 P869−P871 大正から昭和にかけてハーモニカ、マンドリン、バイオリン、ギターがよく売れた。この時期のマンドリンやギターはモダニズムの表現のひとつでもあった。後に作家久生十蘭となる阿部正雄も、東京でギターとマンドリンの演奏を覚え、後輩の長谷川二郎や水谷準に弾き方を教えている。阿部は、大正9年「函館音楽会」(函館新聞社主催)に出演して以降、昭和3年に演劇を志して東京へ行くまで、ギター、マンドリンの演奏や指揮で大活躍した。全道的なマンドリン流行のきっかけとなったのは、大正10年11月ポーランドのコバリスキーの来道で、函館区公会堂で本道初演の独奏会が開かれている。大正12年、函館にも北方マンドリン倶楽部と函館プレクトラムオーケストラの2つのマンドリン合奏団が誕生している(小林武四郎『還歴北海道マンドリン史』)。山内幸男、貞幸兄弟と吉田辰次郎らが創立した北方マンドリン倶楽部は、13年3月第1回演奏会を開催した。一方井上寿雄らが結成した函館プレクトラムオーケストラは、翌14年1月に阿部正雄指揮で第1回の演奏会を開いた。両団体は活動を競うが、昭和2年に合同する。4年の北方マンドリン倶楽部第10回演奏会まで合同公演を続けたが、まもなくプレクトラムオーケストラが独立した。そして9年の大火がその後の運命を分けた。高価な楽器類が無事だったプレクトラムオーケストラは、翌10年5月、復活第1回の公開演奏会を開催、11月に定期演奏会を開いた。その後もラジオ放送や歌謡曲コンクールの伴奏など活動の場を広げ、16年には5年ぶりに定期演奏会も開催した。一方北方マンドリン倶楽部は大火で低音楽器全部を焼失し、ようやく14年になって再興。12月には、函館放送局に出演するが、戦争が終わるまで演奏会を開くことは出来なかった。 ギターでは、北方マンドリンの創立に参加した秋山富雄が、大正15年12月に第1回ギター独奏会を企画したが天皇病気のために中止、昭和3年3月に函館初のギター独奏会が実現した。自身の活発な演奏活動の一方で、函館ギター研究会を創立し後進を育てた。同10年、ギター研究のため上京するが、まもなく病気となり帰函、同11年7月に独奏会を開催し翌12年5月享年33歳で逝去した。その才能が惜しまれた(函館ギター協会編『函館のギター史』)。
|
|
「函館市史」トップ(総目次) | 通説編第3巻第5編目次 | 前へ | 次へ |