通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第7節 都市の生活と新しい文化

5 芸術分野の興隆
1 函館文学の誕生と成長

北海道文学の萌芽

苜宿社(ぼくしゅくしゃ)と啄木の函館歌壇

紅塵社・夜光詩社そして海峡社へ

『短歌紀元』から『無風帯』の時代

来函者によって培われた函館詩壇

ホトトギス隆盛の函館俳壇

函館柳川会を中心とした函館柳壇

函館川柳会を中心とした函館柳壇   P857−P860

 明治41(1908)年1月、北海タイムスが北海道で最初に「新川柳」の名称で最初に句を募集した。それまでは「狂句」として募集していたもので、明治末期あたりまでは、狂句と川柳が同義語として解釈されていたといわれる。俳人福原雨六の「時代が斯うした」と題する一文によれば、函館では明治14年に、地蔵堂(現在の豊川町)にあった修文堂という書店で雨六自身が絵入り川柳(単行本)を読んだことがあるといい、明治21、2年以降に小さな雑誌を創刊して、川柳の選を、俳句の宗匠であった「孤山堂無外」翁に託したと回想しているが、川柳に関するこのころの資料は極めて数少ない(斉藤大雄『北海道川柳史』)。
 函館の川柳界は、地元新聞によってはぐくまれ、大正期の黄金時代を築くに至ったが、函館毎日新聞の「朝刊余興」欄にはじめて川柳が掲載されたのは、大正3(1914)年6月26日のことである。このような中、函館に川柳会が誕生したのは大正5年3月のことである。山村近冬歌(都ね尺)が同好の士長浜阿仏、石光六歩酔に呼びかけて「函館川柳会」を創設し、第1回の句会を恵比須町事務所で開催している。「函館毎日新聞」はこの川柳会の誕生に際しても募集案内や模様などに紙面を提供し、大衆への川柳の普及に努めた(前出『北海道川柳史』)。
 大正7年8月16日、北海道川柳大会が札幌で開催され、札幌(アツシ会)と函館(函館川柳会)の川柳の交流がはじまった。続いて函館最初の川柳大会が湯川温泉で開催され、山村都ね尺、落合洒落、北村不玄老、石光六歩酔、春の家光之助、亀井花童子、福原雨六、市田可遊など約30名が出席した。その後、山村都ね尺と亀井花童子の衝突があって、花童子は函館川柳会を脱会し、同年9月、新たに「渡島川柳社」を創設して、柳誌『忍路』を発行した。この2人の分裂で函館の柳界は完全に二分されることになったが、分裂を憂いた市田可遊らの努力により、同年11月函館川柳会と渡島川柳社が合併して「函館川柳社」となり『忍路』を継続することで和合した。『忍路』は、その後大正14年10月に終刊号を発行するまで、本道柳界の指導的存在として寄与した。
 大正後期から昭和前期の函館柳壇は、函館川柳社を中心に、市内の柳壇が群雄割拠の様相を呈した時代である。この時期の流れを示したのが次に掲げる図である。この図を参考に簡単に流れをおってみる。
 大正10年頃に函館は、湯川に「貴」の号を題に冠する「貴の字連」があり、若松町では、亀田千城が「トンボ会」を主宰、さらに「九尺社」「北柳倶楽部」「臥牛吟社」といったグループが、毎月句会を開催したほか、野村二三吉が、青柳町在住の川柳人を集めて「青柳会」を、菅沼みどりが宝来町で「川柳ぼっちゃん会」を、田畑紫仙が栄町で「茶話会」といった具合に、にぎわいをみせていた。そのような中、大正12年、小樽の田中五呂八が新興川柳を提唱し、革新誌『氷原』を発行した。このことによって、それまでの川柳の牙城であった函館の川柳界も影響を受けることになり、翌13年9月には、村井潮三郎によって、新川柳創作誌『黎明』が創刊された。これは五呂八の新興川柳の運動に呼応するものであった。『黎明』の発刊は、函館の柳壇をゆさぶったばかりでなく、東京や大阪へもその波及が押し寄せたが、同年11月に第2号を発行して廃刊となった。この月には、西村五稜、本多柳友、山口一樹、古山桃花、甲野狂水、相木酔狂によって、「川柳ほのほ社」から革新川柳雑誌『ほのほ』が出されたが、これも同14年2月、第4号を発行して終っている。一方、北海道の柳壇をリードしてきた函館川柳社は、同14年6月、創立10周年記念川柳大会を開催、大会を成功裡に終らせた後、亀井花童子は函館川柳社を脱会し、大正15年3月、再び「渡島川柳社」を創立した。
 こうして革新川柳が台頭していく中で、函館柳界の黄金期を形成した柳誌『忍路』は、同14年11月に、第7巻第11号まで出して休刊となり、大正期の函館柳界は幕を閉じたのである。昭和初期も依然群雄割拠しており、花童子が渡島川柳社、森里魚が函館川柳社、甲野狂水が道南川柳社、村井潮三郎が黒潮吟社、北村白眼子が川柳野蘭会を主宰していた。さらに昭和3年2月には、甲野狂水、山口一樹、北村白眼子によって「道南川柳社」が、7月には山口松宵らによって「惑星川柳会」が設立されて函館柳界は頂点に達した。しかし8月には道南川柳社が解散、白眼子は野蘭会に復帰し、白眼子を除いたメンバーで「函館氷原社」が設立された。翌4年1月には、函館川柳社、野蘭会、惑星川柳会、渡島川柳社が合同しての「ひぐま川柳社」が結成され、柳誌『ひぐま』が創刊された。『忍路』が廃刊されて3年余にしての川柳誌の誕生であった。『ひぐま』は、昭和6年2月、第22号をもって終刊となったが、この柳誌の傘下に「亀の子会」がある。函館川柳社の主幹鈴木青柳はここで育ち、会員には、吉田酔狂、横山日出丸、対島丘児、中元鼓舟、村井廻楼らがいた。同6年5月、白眼子は、森里魚を客員に迎えて新たに「北海川柳社」を創立し、機関誌『川柳漁火』を創刊した。一方花童子は、同時期、函館川柳社を再興し、機関誌『かむい』を創刊した。同人には、神尾三休、石光呂久、長谷川紅露、早川蔦の家、山村都ね尺がいた。翌7年5月、『川柳漁火』が9号をもって廃刊、同年9月には山口一樹らが「茶柱川柳社」を結成して『茶柱』を創刊したが、函館の柳界はほとんど冬眠状態を迎えていた。
 昭和10年、村井潮三郎が東京から帰函して「潮吟社」を創立し、ハガキ句集『機関銃』を発行し、後に『潮』と改題したが、11年7月に9号を出して休刊となった。また、郷里松前に転住していた白眼子は、同12年1月函館に戻り、歯科医院を開業する傍ら、村井潮三郎を手伝い、同年3月、村井の柳誌『うしほ』の更生版『川柳うしほ』を発行した。山村都ね尺、森里魚、早川蔦の家、山口一樹、長谷川紅露、巴三浪、畑喜多坊、甲野狂水らが名を連ねた。
 波乱に富み、めまぐるしい展開の中で繁栄してきた函館柳界であったが、戦時色に染まっていく昭和16年4月に、ようやく日本川柳協会函館支部が結成(支部長・神尾三休)された。
函館の川柳界
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