通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第7節 都市の生活と新しい文化

5 芸術分野の興隆
1 函館文学の誕生と成長

北海道文学の萌芽

苜宿社(ぼくしゅくしゃ)と啄木の函館歌壇

紅塵社・夜光詩社そして海峡社へ

『短歌紀元』から『無風帯』の時代

来函者によって培われた函館詩壇

ホトトギス隆盛の函館俳壇

函館柳川会を中心とした函館柳壇

北海道文学の萌芽   P837−P840

 蝦夷地が、勅令によって北海道と改称されたのは、明治新政府が明治2(1869)年7月に北海道開拓使を設置した翌月のことである。これを契機として急速に変革の道をたどり始めた北海道は、開拓の意欲と情熱に燃えた多くの先人達によって、膨大なエネルギーが投入されることになった。未開の地を切り開き、厳しい風雪や獣との闘いなど、過酷なまでの環境の中で開拓が進み、馴致するにしたがって土着性も確立され、北国の新たな文化が生まれ育つことになる。
 開拓の歴史にあって、北海道文学の萌芽を求めるとき、おそらくは、電信技手として後志の余市電信分局への勤務を命じられて渡道してきた幸田露伴が、アイヌ民族の伝説を描いた最初の小説『雪粉々』(明治32年11月25日〜12月25日まで14回にわたり「読売新聞」に連載)あたりから出発したとみることができるだろう。以後、葛西善蔵、国木田独歩、有島武郎、島崎藤村、石川啄木、岩野泡鳴、長田幹彦など多くの作家たちが、本州で食いつめたり、新天地に対するあこがれやロマンを抱いて渡道し、この北の大地を舞台にして、明治・大正・昭和の激動の時代を、歴史の諸相と生存に向けて、多くの作品を生み出してきたのである。また一方では、親兄弟が、この辺境ともいえる土地で、開拓者として生きぬき、築きあげてきた土地から、文学への志を抱き、その夢と目的を達成するため、津軽の瀬戸を渡って、中央文壇をめざした作家も少なくない。中村武羅夫や小林多喜二をはじめ亀井勝一郎、久生十蘭、長谷川海太郎・四郎兄弟、八木義徳ほか、その数は多数にのぼる。これら北海道出身者にあって、函館に生まれ育ち、やがて中央文壇で名をはせ活躍した作家について、最初に触れておかなければならない。
 亀井勝一郎は、明治40(1907)年2月函館に生まれた。父喜一郎は、当時函館貯蓄銀行支配人という裕福な家庭環境にあり、弥生小学校入学と同時に、アメリカ人宣教師から聖書と英語の個人教授を受けるなど、キリスト教的雰囲気の中で少年時代を過ごした。函館中学校から山形高等学校を経て東京大学美学科に入学、マルクス・レーニン主義の文献を耽読し、中野重治らと芸術一般のマルクス主義の勉強にも取り組み、大学3年に入り在籍の意味を認めず自ら退学した。共産青年同盟員だったことから、三・一五事件で検挙され、2年半に及ぶ獄中生活を送り、転向保釈後は日本プロレタリア作家同盟に所属して活躍し、昭和9年3月には、作家同盟の解散を経て、保田與重郎らと日本浪漫派を結成した。少年期に自らが何不自由なく育った「富める者」としての罪悪意識をぬぐい去ることなく、マルクス主義体験、日本の伝統芸術との出会い、宗教体験、戦争体験などに触れながら、自己の内面を通して、日本人とは何かという問題を追求し続けた。代表的作品に『転形期の文学』をはじめ『大和古寺風物誌』『親鸞』などがある。
 明治35(1902)年4月、函館に生まれた久生十蘭(ひさおじゅうらん)(本名阿部正雄)は、函館中学校を中退して上京、東京滝野川の聖学院中学校を卒業後、函館毎日新聞社に勤務しながら、詩や戯曲を書き、また演劇活動に傾倒した。昭和元(1926)年、再び上京して岸田国士に師事し、昭和4年『骨牌(かるた)遊びのドミノ』を発表した。同年、演劇研究のため渡仏し、8年に帰国して、新築地劇団の演出助手となり、11年からは、明治大学文芸科講師を勤めながら「新青年」に多くの探偵小説を発表した。その後、巧緻多彩な読み物を書き続け、昭和26年には『鈴木主水』で直木賞を受賞、また28年には『母子像』が、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙主催の国際短篇小説コンクールで一等に入選したが、孤高の異端作家としても有名で、大衆文学の質的向上に果たした功績は大きい。

亀井勝一郎

久生十蘭
 明治37(1904)年3月函館に生まれた水谷準(本名納谷三千男)は、早稲田大学仏文科在学時代から「探偵趣味」の編集に携わり、卒業して博文館に入社した。後に探偵小説を主とした雑誌「新青年」の編集長として17年の長きにわたって活躍したが、この間『空で唄う男の話』『お・それ・みを』『胡桃園の蒼白き番人の話』などを発表し、推理作家としての地位を築いた。独特の趣味と機智を感じさせる作風は、幻想浪漫的なミステリーが多く、またユーモア探偵小説を提唱したが、名編集長として推理文壇以外にも人材を求め、モダンでユニークな誌面を作り、多くの作家を育てた。
 函館出身の作家の中で、ひときわ異彩を放ち、スケールの大きさと波乱万丈の人生を送ったのが、長谷川海太郎である。明治33(1900)年1月、新潟県佐渡郡に生まれたが、父淑夫が北海新聞社の主筆となったため、2歳のとき函館に移住した。弟二郎は画家、濬はロシア文学者、四郎は作家として、それぞれ活躍した。海太郎は、弥生小学校から函館中学校に進んだが、5年生のときストライキ事件の首謀者となり、退学した。上京して明治大学専門学部を卒業後渡米し、大正13年帰国した。少年時代より文才にたけていた海太郎は、米国での体験を『テキサス無宿』『めりけんじゃっぷ商売往来』などと題して谷譲次の筆名で発表した。また、林不忘の名で丹下左膳を主人公にした『新版大岡政談』などの美文調の時代小説を、さらに牧逸馬の名で、都会的メロドラマ風の家庭小説や恋愛小説を『この太陽』『地上の星座』などと題して発表し、主婦層を中心に大当たりした。日本人離れした行動様式と独自のアメリカ体験に裏打ちされた作風は、読者に強烈な印象を与え、当代の超流行作家としての地位を不動のものにした。
 海太郎の弟四郎は、明治42(1909)年6月、函館に生まれた。兄同様に弥生小学校から函館中学校を経て、昭和11年法政大学独文科を卒業し、南満州鉄道に入社した。19年に応召、翌年ソ連軍に抑留され、25年までシベリア各地の収容所を転々として強制労働に従事した。その間の捕虜生活の経験が、作品のテーマに生かされたが、代表的作品に『シベリア物語』『鶴』『無名氏の手記』などがあり、翻訳作品も多い。兄海太郎とは対照的に、時流と一線を画し、清潔な感性と簡潔自在な語り口の魅力で、独自の境地を開いていったのである。
 津軽海峡を往来する作家たちによって着実に構築されてきた北海道文学の歴史はまた、明治20年代に端を発した日本近代文学の発展と歩調をともにしてきたといえる。それだけに未地の世界を切り開き、新たなものへの挑戦を拒むことのできなかった環境の中で培われてきた北海道の精神風土が、近代文学に与えてきた影響は大きなものがあるといわなければならない。
 こうした背景のもとで、歌壇・詩壇・俳壇・柳壇など北海道文学の各分野で、函館はその先がけとして大きな役割を果たしてきたことだけは確かである。その函館での各分野の活動をまず歌壇界から見ていくことにする。
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