通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第7節 都市の生活と新しい文化 5 芸術分野の興隆 『短歌紀元』から『無風帯』の時代 |
『短歌紀元』から『無風帯』の時代 P847−P851 明治期から大正期へと北海道の開拓が進むにつれ、歌壇の分野でも道内各地への広がりが顕著になっていった。昭和初期の北海道歌壇は、口語歌全盛の時代と位置づけることができるが、函館での口語運動の第1期歌人としては、川崎むつを、竹内寛、砂澤浪二、岩船清三郎、高橋武一らがあげられる。大正14年に、高橋武一、大矢新一郎、松金流星らによって口語歌誌『炎天』が発行され、第3号より『ツンドラ』と改名されて口語歌発展のため寄与したが、このころから函館で、口語歌が見られるようになった。昭和2年3月には、黒松内の口語歌誌『街・三角』の主幹である住吉定雄が函館に転住したのを契機に、ツンドラ社と合体して函館新短歌連盟を結成し、高橋武一が編集者となり『ツンドラ』を機関誌として、同年4月に第1号を創刊した。これが函館における口語歌運動の第2期である。創刊時の同人は、高橋昌治、北川夢天、橋本夕路、山口よしを、中村守人、松金流星、住吉定雄、高橋武一らで、寄稿者は、伊東音次郎、炭光任、並木凡平、岩船清三郎、福田末三郎、清水恒太郎、漱鬼惺、大淵幸三、工藤麗瞳らで、全国的顔ぶれがそろっていた。しかし『ツンドラ』は、昭和4年10月、第11号を刊行して終刊となり、8年1月に、高橋武一が主幹となって、再び新興短歌の研究団体である北方新短歌連盟による『短歌地帯』として復活したが、これも同年5月に第2号を発行して終った。(白山友正『北海道歌壇史』)。 昭和2年7月には、船木好母によって『青杉』が創刊された。これは大正8年6月、好母が結成したムラギモ短歌会の雑誌『ムラギモ』(大正12年5月、第3号で終刊)の復活歌誌とみることができる。同人は、好母、船木よね子、武藤善友、安保白袍、掘井兼太郎、櫻田角郎の6人で、昭和3年1月までに3号を発行したが、4年12月に好母が逝去したため、中断のやむなきに至った。5年3月には、秋田県仙北郡に生まれ、上磯町の慈教寺住職を経て、船見町にある称名寺の二十三世住職を勤めていた武藤善友を中心とするアララギ北海道会員によって『龍膽』が創刊された。同人は、善友、櫻田角郎、安保白袍、福山夕明らであったが、同年7月に4号まで発行して終っている(櫻田角郎「『ムラギモ』『青杉』からアララギ歌会まで」『函館歌壇史』)。 全盛を占めていた口語歌運動も、時を経るにつれ、新興短歌の興隆や文語歌壇が復興の兆しをみせてきたことに伴い、後退を余儀なくされていった。 函館での新興歌壇の展開は、昭和7年10月6日、「函館日日新聞」に「日日歌壇」欄が、また10月10日から「函館毎日新聞」に「新興短歌」欄が設けられたことにより急速に活発になった。いずれも選者は白山友正があたった。明治39年雨龍郡多度志村に生まれた白山は、札幌師範学校から小樽商業学校を経て、昭和7年4月、函館師範学校教諭として赴任してきた。白山は、大正9年9月、故郷ですでに大西清花らと百合の花短歌会を興した経歴の持ち主で、大正12年10月には、札幌で『百合の花』を創刊し、13年1月に社名を北上建設と改めた。同年6月には、アララギに入会して、島木赤彦の指導を受けたが、昭和2年2月退会した。5年12月には、『百合の花』を『伐木』と改題し、さらに7年に来函して間もなく『北建短歌』と改題して、『百合の花』の後身歌誌として発行を続けた。翌8年10月には、さらに『短歌紀元』と改題し、日本新興短歌連盟の機関誌としても活発な活動を展開した。この時期、『青空』『吾が嶺』とともに道内三大歌誌のひとつに数えられていた。白山は、口語調を文語の中に生かした平易な生活に即し、親しみやすい歌風を確立していった。昭和9年には、『短歌紀元』が中心となって日本新興短歌大会を開催し、その後15年まで、同大会を10回にわたって全国で開催するとともに、短謡、新興短歌、自由律短歌を標傍した。しかし、国情が緊迫化していくに伴い、官憲の容喙するところとなり、17年には全国的に定型歌へと転向したが、本道最古の歌誌と白山が自称した『短歌紀元』は、戦前・戦中・戦後と継続発行され、北海道短歌界にも大きな役割を果たしていった。
また、到着早々の6月6日夜には、与謝野夫妻を講師に招き、市民館において教育会と図書館の共催による講演会が開催された。与謝野晶子は、「女子と修養」と題し、「昔時は男子の付属物視されたが、社会組織の進歩と共に女性の地位は向上し、十八世紀以来女性は開放されて、教育、職業、参政の地位を漸次獲得してきた。男子と同等に文化に貢献するのが現代婦人の理想であり実生活であるべきであり、労働を楽しむこと、新文化創作を標的として、経済生活に繁雑なる現代人として心身修養上、慰安上からも文学を愛好すべきである」と説いた。さらに与謝野寛は、「短歌に就いて」と題し、「芸術は文化人の生活をよりよく豊富ならしめるのみでなく、欧州では、古来詩は、予言するとまでいわれてきた。真の創作は、予言であり、立派な詩歌は言葉の音楽であり、言葉の芸術であり、模倣には何ら価値はない。名誉欲、利欲から解放された気持ちのもとに作歌する態度が必要である」と説いた。この夜、講演会に出席した聴衆は、坂本森一市長夫妻をはじめ300余名にのぼったと「函館新聞」(昭和6年6月8日付)は報じている。 昭和7年10月には、阿部たつをが『無風帯』を刊行した。阿部は、明治25(1892)年1月東京に生まれ、一高を経て大正8年、東京帝国大学医学部を卒業した小児科の医師である。大正11年に来函し、市立函館病院の小児科長として28年余り勤務した。その後、昭和25年には社団法人函館慈恵院の経営する函館中央病院小児科長に転じたが、医師であるばかりでなく、函館歌壇の先達としても大きな業績を残すことになった。 『無風帯』は、当初、阿部の周辺にいる知人たちの短歌をもち寄って発行していたが、次第に一般からの投稿者が増加してきたため、独立した歌誌となった。「実作主義で全誌作品のみとする」「同人制も詩友制もなく、投稿者には経営上の責任を一切負わせない」「作品は作者本位で各流派を網羅する」ことの3つを歌誌発行の信条に掲げている。歌誌は、昭和9年3月21日に発生した函館大火のため類焼して5か月間休刊した以外は、昭和19(1944)年6月に、戦時下の統制によって発行停止を命ぜられるまで一度も休むことがなかった。出詠者もまた全国にわたり、文語定型歌が毎月4、50名から寄せられたが、阿部を主幹として、その主な顔ぶれには石山幹貢、遠藤賢三、菊池京路、小野忠雄、細貝虹洋、菱木南窓らがいる。昭和12年7月には、50集発行の記念事業として阿部たつを編の合同歌集『鳩時計』が、また同年12月には『函館歌壇史』を発行するなどの業績を残し、戦後継続して『無風帯』が発行された(前出『函館歌壇史』)。 この年1月、岩桧葉短歌会から『岩桧葉』が刊行された。この短歌会は、昭和8年1月に結成されていたもので、メンバーは、吉岡牧村、山内國治、藤村卯花、福田美代子、菅野修作らで、その大半がアララギの会員であり、武藤善友の指導を受けたが、昭和20年12月廃刊になった。 戦前期の歌壇にあって、昭和12年には「大日本歌人協会」が設立されたことが大きな出来事としてあげられるが、同協会は15年に解散して「大日本歌人会」となり、次いで「大政翼賛会短歌部」となった。道内では、その組織下に16年6月に結成された「北海道歌人協会」があった。この会は、北海道文学報告会のもとに統制されており、主な業績として『北海道歌集』の刊行があるが、戦時体制にあって言論・結社・集会の統制が強まる中で、不自由な表現活動を強いられ、さらに戦局が末期的な徴候を迎えていった20年には、活動不能となり、歌誌発行のための用紙さえも配給停止という事態になった。 |
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