通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第7節 都市の生活と新しい文化 2 大火と都市形成 大火史から見た地域課題 |
大火史から見た地域課題 P736−P737 大正10年の大火後の新聞記事は、火防思想の3時代として明治40年までの上水道時代、大正10年までの自動車喞筒時代、大火後の不燃質建物時代に変遷を区分している(大正10年4月21日付「函新」)。この流れからいけば、昭和9年の大火以降は都市計画の時代といえるのかもしれない。いずれにせよ、函館の大火史においてもその被害の甚大さから、理想と現実との間の選択が当時の経済事情や地域課題に条件づけられて都市景観が形成されたことだけはまちがいがないと思われる。つまり、明治40年と大正10年の大火後の復興事業の違いは、防火線ひとつとっても、明治40年の経済事情が「四十年の大火の際は倉庫は全滅し倉入商品は全部焼失したるが故に、商人の打撃は非常に大にして金融業者にも累を及ぼしたり」という状況にあったこと、大正10年の「今回の火災に於ける被害者は、相当なる資力を有する向多きを以て打撃を受けたるには相違なきも、是に依り再起し得ざるが如きは殆とあらざるべく」(大正10年4月22日付「函毎」)という状況との違いが銀座通りを生む時期に大きな影響を与えたのである。昭和9年の大火後の防火線の設置も、「地区内の建築主に対し相当重い経済的負担を負はしめることになるので、東京横浜の復興事業に際しては国庫補助の途が開かれてあった、何等か斯様な制度の伴はない限り防火地区の設定は困難である」(昭和9年5月2日付「函新」)との指摘もあるようにかなり困難な事業であることが理解できる。さらに、被災範囲の市民層が小商人や低所得者層が多い地区であったことも影響しており、「焼失区域内の火防線耐火建築は昭和19年迄の期限であるが、資力を有せぬものは到底早急に建築困難であるのでバラックの修復を許可」(昭和13年5月25日付「函毎」)せざるをえない状況であった。 復興事業における耐火建築の問題は、その側面にある地代金の問題でもあって「家屋は土地の上に建設せらるるものであるが、地主が借地の年限長きは三年、普通一年を限りとして居る、三年や一二年の期限でその土地に不燃質の家屋の建設などは思ひも寄らぬことである」(大正2年5月6日付「函新」)という旧来からの地域課選であった。この課題は、大正10年の大火の際の火防設備実行会においても不問にされていた(大正10年5月3日付「函新」)。昭和9年の大火後にも、「防火建築には地上権の設定を要する、之に地主は自覚があつて、而して地代を低減すべきである、防火建築に関して地主は必ず斯くまでの自覚があり得ることと信じたい」(昭和10年7月19日付「函新」)という状況で、この地域課題は解消されずにいた。 |
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