通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第7節 都市の生活と新しい文化

2 大火と都市形成

大火と都市景観

明治40年の大火概況

大火後の復旧事業

火災予防組合の設置

火防設備期成同盟会の建議

火防調査委員会の建議

大正10年の大火概況

火防設備実行会と防火線

火防の進展と都市計画

昭和9年の大火概況

昭和9年の大火の惨状

防火建築の検証

大火後の復興事業

大火史から見た地域課題

慰霊祭と慰霊堂

火防の進展と都市計画   P727−P728

 大正10年の大火後の火防に関する動きは、大正11年1月に宝町に火災予防婦人会が、「婦人の火災予防に関する知識の交換或は専門家の講演等を開くと共に一般の協議を為して火災予防の知識普及を図る」(大正11年1月25日付「函新」)ことを目的に組織されている。また、函館消防組は火災報知機の寄付募集に着手し(大正11年6月23日付「函新」)、大正13年1月11日にその開通式を挙行している(大正13年1月11日付「函新」)。その函館消防組の部制変更について、「近時市内東部ノ発展著シク向上ヲ見ルニ際シ警火消防ヲ一層徹底的ニ実行ヲ期スル上ニ於テ従来ノ消防組ノ編制ハ一方ニ遍シ一朝有事ニ際シ非常ニ機期ヲ失シ消火上甚タ遺憾ノ次第」との理由から、東部方面の消防体制の不備に対処するために五部制から七部制へと変更する諮問が、大正12年2月15日の市会に提出されている(「大正十一、二年市会関係書」)。
 このような東部の発展に対する防火体制の遅れは、非常用用水にもあらわれており「東部は市街化して今や発達しつつあり、而して家屋の小隘不完全にして長屋の連続し、住民の出稼人多くして火の用心も到れりとす可らざるに、此の如く防火用の水利を欠き、用水の不足なるは是れ一に東部方面の危険のみにあらず、函館の風位と大火災の例に徴すれば、是れ實に函館市の大危険ならずして何ぞ」(大正13年9月12日付「函新」)と注意を促し、その結果によっては明治40年の大火よりも恐ろしいことになるかもしれないとの潜在的危険性が指摘されていた。
 さて、市民による防火努力と違った意味で大切な要件として都市計画がある。函館市は、都市計画法第2条の規定による適用市に大正12年5月29日に指定され、7月1日より施行されている。また、大正15年7月6日に都市計画区域を決定し、昭和4年7月8日には都市計画街路線と地域が決定されている。しかし、都市計画事業は、計画が認可されても補助事業でないため財源確保が難しく、「計画街路事業ハ財源ノ関係上未ダ実施ノ機運ニ至ラズ然ルニ市東部ノ膨張発展ハ著ルシク放慢無統制ニ市街化セラレツツアリ」というように計画段階で終止し、東部方面の市街化は無統制の状況を克服できないでいた(『昭和七年 函館市事務報告』)。当時の市民の都市計画事業についての反応は、「都市は市民の実力に応じて自然に生るるものなり、政府の作りたる都市計画は六大都市にすら事実上適用難なるものなり、之を我が函館に向つて適用せんとするは不釣合のもの」(大正10年5月11日付「函新」)という認識を越えるものではなかったろうと思われる。
 さて、昭和8年には火防組合連合会と衛生組合連合会が合併して函館衛生火防組合連合会が設立され(昭和8年5月6日付「函日」)、火災保険料の低減が決定されている(昭和8年7月5日付「函新」)。また、この時期の函館の消防組は「今や施設の上に於ては殆ど完璧を期し得たるものであり、発火報知と同時に出勤して、僅々五分間以内に現場に到着し、直ちに放水作業を開始するのであるがこの迅速なる作業は、これまた多年の経験と苦闘によって得たる賜物」(昭和8年6月9日付「函毎」)という評価を受けていた。さらに、函館消防義会も大正14年に設立された函館消防茶話会を吸収するかたちで財団法人化が認可されている(昭和8年11月19日付「函新」)。このように、昭和8年は前述した大正4年時の火防調査委員会の決議事項をほとんどクリアーした年でもあり、その限界を知るプロローグでもあったのである。
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