通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第7節 都市の生活と新しい文化 2 大火と都市形成 火防設備実行会と防火線 |
火防設備実行会と防火線 P725−P727 大正10年の大火の翌日に掲載された新聞記事によれば、大火の教訓として「罹災家屋の多くは可燃性なる木造家屋で、吾等は市中の随所に防火壁を設置するの急務なるを知つた、其他には火災報知機の増設、電話の普及等も必要であると思ふ、何れにもせよ今後は火災の予防に関し徹底的の対策を講ずることが大切である、其れにしても當区の如き充実せる消防機関を遺憾なく活用する為には、現在のやうな狭少なる道路の改善も其必要の一つである」(大正10年4月15日付「函毎」)と火防設備の課題が指摘されている。大火後の善後策について区会議員協議会は、「焼跡の路線を改正する事、焼跡に五線の防火線を設け鉄筋コンクリートの防火壁を築造する事」(大正10年4月16日付「函新」)を決定し、正式に区会に提議することになった。また、市民においても資産家層を中心とする「火防設備実行会」が組織され、発起人である渡辺熊四郎が協議会の開会の挨拶の中で「明治四十年大火にも識者は火防設備を高唱せるも実行機関なき為行われず遂に再び此大火を見たり、今にして徹底的に設備をなさざるか函館の将来は滅亡せん」(大正10年4月21日「函新」)と火災に対して火防設備を徹底しなければ函館の将来は滅亡してしまうとの危機意識を表明している。 火防設備実行会は、明治40年の大火後にも指摘された防火線の設置をもっとも重要な案件としている。そのことは「区役所の計画に係る五条の防火線中第四防火線(二十間坂道)と此際永国橋通(金森倉庫側より蓬莱町一六銀行前の電車通に至る)を二十間幅に拡張し此道筋と即ち二線を火防線として此際万難を排し其設備を完備せられたき」(大正10年4月23日付「函新」)という2本の20間幅の防火線により大火の被害を分断しようとする意見からも類推できる。 これに対し、恵比須町町内有志一同は、防火線を設置することには賛意を表しながらも、恵比須町通りの20間幅への拡張については、「業態に鑑み将来の盛衰に著しき影響を生する」と商業活動には道路幅が広くなることは良いことではないとの理由から反対陳情書を函館区会に提出している(大正10年4月25日付「函新」)。 火防設備実行会は、この反対陳情を考慮してか最終的決議事項のひとつとして「永国橋より蓬莱町一六銀行に至る道路を廿間幅とし火防線と為すべき旨前に意見を開陳せるが右の道路幅員は区理事者に於て適当と認むる計画に一任し家屋の建築を不燃質と為す事を条件として更に道路の拡張を一六銀行前に止めずして大森濱赤石海岸に達する様施設せられん事を望む」(大正10年4月26日付「函新」)と道路幅に柔軟な態度を示しながら、あくまでも不燃質建物による防火線を重視していることが理解できる。しかし、この防火線の位置について「此線は西部を防ぐに主なるものなるも、東部を禦ぐには主なるものにあらず、此線を以てすれば函館の一部を防ぐに長きも、東部にして、而も火災の最も危険地とせらる、東川町の地点を防禦し、宝町、地蔵町、汐止町、船場町、豊川町、鶴岡町の方面を包囲するに足らざるなり」(大正10年4月28日付「函新」)と述べ、明治40年と大正10年の両大火の火元がいずれも東川町であるから東風による西部方面を防御するには有効であるが、それ以外については不適切であると指摘する論評が新聞紙上でなされている。 さて、火防設備実行会、火災予防組合連合会主催の火防実行の区民大会は、5月1日に公会堂にて開催された。函館区民大会では、1.市街地建築物法の一部又は建築条例の施行を期す、2.区道を整理し火防路線の設定を期す、3.消防署の設置を其筋に建議することなどが決議されている。函館区は、これら市民の意見を参考にし、前述の区会議員協議会での決定事項を修正し、防火線設定の諮問案「防火線設定ノ件」により甲種防火線2線と乙種防火線4線として、恵比須町通りは12間に拡張することを決定している。またこれに関連して「防火線家屋建築費補助規定」が制定され、建築構造や建築費補助額などが決められた(「大正十年第二回以降 函館区会議録」)。これらの事項からは、未だ函館区が都市計画法の指定を受けていなかったにもかかわらず、市術地建築物法の理念を採用している都市の先進性を理解できる。その結実が銀座通り(恵比須町通り)の都市景観を生んだのである。ちなみに、恵比須町通りが函館港より津軽海峡の外海へ貫通した工事もこの時期に実施されている。 |
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