通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第7節 都市の生活と新しい文化

2 大火と都市形成

大火と都市景観

明治40年の大火概況

大火後の復旧事業

火災予防組合の設置

火防設備期成同盟会の建議

火防調査委員会の建議

大正10年の大火概況

火防設備実行会と防火線

火防の進展と都市計画

昭和9年の大火概況

昭和9年の大火の惨状

防火建築の検証

大火後の復興事業

大火史から見た地域課題

慰霊祭と慰霊堂

大正10年の大火概況   P723−P725

表2−177 大正10年の大火概況
出火時間
出火場所
焼失区域
焼失戸数
催災人口
損害総額
死者
焼失建物
鎮火時間
4月14日午前1時15分
函館区東川町198番地
152,830坪
2,141戸
10,996人
17,798,549円
1人
1,309棟
4月14日午前7時30分
『函館大火史』より作成
 大正10年4月14日の大火の発火位置は、東川町東部の一角で比較的粗雑な木造家屋である。当時の風位は、真東にして風速8メートルで、時刻は午前1時頃の深夜であった。また、発火地点が宝小学校の陰に隠れて発見が遅れたことが大火になるひとつの要因であった。消防隊の手配に関しては、明治40年の大火の経験から北西方・地蔵町方面を警戒することに努め、全力をあげて錦座や宝小学校の防御に尽力した。もし、この2大建物が焼失したならば、警察署、消防本部に延焼し船場町の倉庫群より東浜方面に拡大するかも知れない状況であった。消防隊の防御が効を奏し、地蔵町方面への類焼は食い止めれたが、他方蓬莱町、相生町をまたたく間に焼失し、火勢は午前4時頃に十字街を襲い曙町20間坂付近に達した。
 十字街は、函館の中心で商店街を形成し最も繁栄している地域であり、二十間坂は函館区の重要な防火線であり、ここでの鎮火に望みを託していた地点である。しかし、この時風力はなお11メートルを示し消防員は疲労し器械は損傷しており、二十間坂の防御は難しく午前4時30分には会所町の一角より西方向へ延焼は拡大した。末広町、会所町、元町へとその被害範囲を拡げ、函館支庁舎や函館区公会堂そして函館区病院に及ぼうとしていた。幸いに、基坂の防火線を警戒していたことや、風力が衰えたために午前7時30分を以て鎮火したのである(『函館大火史』)。

図2−19 大正10年大火後の甲種防火線(当初計画上に作成)

大正10年大火後の銀座通り建設現場(北海道写真史料保存会蔵)
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