通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第4節 戦間期の諸産業
1 函館の経済界

5 函館における銀行業の展開と金融事情

大戦前後の金融事情

支店銀行の設置

柿本銀行の設置と金貸会社の登場

本店銀行の増資と資金流出

地場銀行支店網の拡大と役員動向

大戦後の反動恐慌

百十三銀行と函館銀行の合併

金融恐慌下の函館

百十三銀行の道銀合併

金銭貸付業と漁業投資

金融界の1年

百十三銀行の道銀合併   P398−P400

 昭和2年の金融恐慌は休業銀行の整理合同を促進したものの堅実な経営を行っている銀行は預金者が動揺することを恐れ、かえって合同を嫌う傾向が生じた。ところが道内の経済界は金融恐慌の影響を免れたものの地元銀行の合同強化は依然として必要なものと受け止められていた。それが百十三銀行と北海道銀行との合併という形で結実するのである。
 これに先立つ大正13年の秋ころに百十三銀行の東京支店で支払保証した手形が市中の高利貸へ出回るという事件が発生した。これは同行の根幹を揺るがす事態であり、合併を促進する発端となった。事件は遠藤という人物に東京支店長が籠絡されて手形の支払保証、現金・国債の浮貸しをしていることが判明し、その被害総額は160万円ちかくにのぼったという(相馬確郎『朝提灯』)。また前述した中央の恐慌をみた百十三銀行の太刀川善吉は北海道における金融機関の安定のために率先して同行と道内におけるもう一方の金融界の雄である北海道銀行(小樽本店・昭和元年に函館にも支店を設置)との合同を進めるべきとして頭取の相馬を説得した。ちなみに大合同の1つにあげられていた旭川の絲屋銀行が昭和元年に破綻し、翌2年に北海道拓殖銀行に買収されていた。こうしたことも太刀川の危機感を強めていったと考えられる。彼は相馬の了解をとると自ら小樽の北海道銀行に赴き、同行頭取の山口治作と合併交渉を進めた。
 こうして両者の合意に達したために3年2月に小熊が代表して小樽にでかけ合併契約書に調印した。北海道銀行が継承銀行となり、新銀行の本店は小樽、頭取は道銀の山口治作が就任することになった。函館側からは常務取締役に相馬確郎、ほかに相馬哲平、小熊、太刀川など6名を取締役とすることが定められた。また2月28日には臨時株主総会を開き合併の決議をし、3月31日をもって北海道銀行へ合併された。そして4月1日からは百十三銀行の各店は北海道銀行の店舗となった(『大公を語る』、小熊家文書 昭和2年〜「日誌」)。なお北海道銀行の函館支店は末広町97の旧百十三銀行の本店に移り、ほかに地蔵町、弁天町、若松町の3支店を継承した。この合併により北海道銀行は北海道拓殖銀行とならぶ大手銀行となった。なお相馬哲平は百十三銀行を「消滅せしめたる責を感じてその就任を肯んぜず」(『相馬哲平伝』)と請われた取締役には就かず、代わりに相馬確郎を取締役とした。

合併した百十三銀行(昭和3年4月2日付「函新」)
 ところで合併後の本店を函館に置くことができなかったことは、百十三銀行が北海道銀行に吸収合併されたからにほかならないが、同時に北海道における金融界の中心的位置を小樽が不動のものとしていたからである。百十三銀行の預金高は前述したように函館銀行との合併時に全道2位であったものが昭和に入ると5位と低下していった。昭和2年末の百十三銀行は預金高が1281万円、貸付1173万円といった規模の営業を行っているが、その純益金も大正14年の45万円から昭和2年の19万円(『北海道庁統計書』)と減少を続けており、経営上の問題や300万円以上の不良債権を抱えていたことも小樽優位で進められた要因であった(昭和3年3月1日付「函新」)。こうして函館を本店とする普通銀行は函館から完全に姿を消したのである。ちなみに函館貯蓄銀行は昭和18年に北海道銀行に合併され、その北海道銀行は1県1行主義という統制下のもと19年に北海道拓殖銀行に吸収合併された。
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