通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第4節 戦間期の諸産業 5 函館における銀行業の展開と金融事情 百十三銀行と函館銀行の合併 |
百十三銀行と函館銀行の合併 P392−P396 前述したように函館は支店銀行が圧倒的な優位にあったが、それに対して地場銀行を合併して対抗勢力を作ろうという動きが生じてきた。それは政府の銀行政策とも表裏一体のものであったようである。大正7年に大蔵大臣は地方長官会議の席上で銀行合同を奨励するとともに、9年には反動恐慌により破綻する中小銀行が相次いだために同年に銀行条例を改正し、合同手続きを簡素化して銀行合同政策を積極的に進めた。この時期の銀行合同は規模および業務の拡張を基調としていたから両行のねらいとも合致するものであったといえよう。また大戦後の不況は両行に不良債権を生じさせたということもあった。しかしながら合併の実現までにはなお紆余曲折があったようである。元々両行は営業範囲が共通しており、資本金も同一であったから自然、強力な競争関係にあった。それだけにとどまらず、両行の役員同士に感情的な対立があったようで、この点に関して、小熊幸一郎は「今回ノ合併ノ成否ハ本区ノ経済界ノ幸不幸ハ勿論、両行ノ盛衰ノ分ルヽ大問題故、双方共利害感情等ハ第二トシテ函館区ヲ本位トシテ是非好結果ヲ告グル」(小熊家文書 大正9年11月〜「日誌」)と、その成り行きを注目していた。小熊が懸念するようなわだかまりもあって、合同までの道のりは平坦なものではなかった。そこで政府の合同推進策を背景にして大正10年3月から古川日銀函館支店長が主導権を握り両行の合併を精力的に推進していった。同年4月14日付けで東京宅にいた小熊あてに届いた函館銀行の頭取である斉藤又右衛門からの書簡に小熊が「数年来ノ懸案タル両銀行合併談日銀古川支店長ノ尽力ニテ愈々具体化シ合併条件モ双方共略ボ意見一致ノ由、函館区経済界ノタメ亦両行ノ前途ノタメ慶賀ニ勝ヘズ」(同前)という感想を持っているが、古川支店長の働きが順調に進んでいることをうかがわせる。小熊はかねてから地域経済の発展という大局的な見地に基づき、数年前から両行の合併を主張していたのである。 ところで大正10年6月に百十三銀行の頭取である相馬哲平(初代)が死去すると、同年7月に同行の相馬市作や石館友作、渡辺孝平などが小熊に後任の頭取に就任するように懇願した。しかし小熊は函館銀行の取締役に就任したばかりであり、その申し出を固辞した。小熊の函館銀行への役員就任は百十三銀行には脅威であり、結果的にこのことが百十三銀行の役員をして合併選択を促したようである。また日銀支店長の斡旋で行われた合併条件のひとつに、頭取には小熊を据えるということであったから、両行の役員は強力に小熊に働きかけた。とりわけ小熊を推挙することは百十三銀行の監査役太刀川善吉の意向が強く働いていたようである(『小熊幸一郎伝』)が、10月に太刀川善吉と函館銀行の久保彦助は上京し、5度に及ぶ小熊との膝詰め談判を行っている。太刀川らの懸命の説得、そして「懇願強要」(前掲「日誌」)に屈して、ついに小熊は同月24日に受諾した。頭取の問題が解決すると、あとの手続きは順調に進んだ。両行は対等合併とし、役員は全員留任、名称は百十三銀行を継承することになった。副頭取には相馬哲平(2代・堅弥)、斉藤又右衛門、常務取締役は石館友作、徳根卯三郎と両行からバランスをとった人選が行われた。合併申請は翌11年3月2日付けで認可となり、4月2日に百十三銀行は函館銀行から一切の引き継ぎを終えた。5月7日湯川の新世界で合併披露式を挙行している。
このほかに有限責任組織の函館信用組合が設立された。これは市街地における中小商工業者に対する庶民金融機関が不備で資金融資の道が閉ざされていることから、その対策として政府が大正6年に産業組合法を改正して創設した市街地信用組合制度によったものである(『明治大正財政史』第16巻)。同年に函館は札幌など道内6か所とともに設置することを指定されたが、函館では札幌や小樽より遅れ、13年7月に設立されている。理事長には海産商の浜崎治助(翌年同じ海産商の西口宗一に交替)が就任した。事務所は当初は蓬莱町としたが、昭和4年には西川町に移った。発足時は組合員も200名足らずで、2か年は赤字であったが、徐々に信用組合への理解が深まり、会員も増加して4年目以降は急激に進展したという。昭和9年の大火では傘下組合員のうち1141名も罹災したが、信用組合はその建築資金に相当貢献したとの回想が残されている(『函館信用金庫三十年誌』)。 |
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