通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第4節 戦間期の諸産業 5 函館における銀行業の展開と金融事情 地場銀行支店網の拡大と役員動向 |
地場銀行支店網の拡大と役員動向 P388−P391 ところで函館の地場銀行の支店網の展開について少し触れておこう。百十三銀行は創業時から東京に支店を設けて営業活動を行っていたが、道内の銀行の大半は道内への金融に止まっており、本州の主要拠点へ支店を進出させるまでの力量はなかった。こうしたなかで百十三銀行東京支店が首都圏で金融業務を展開したことはむしろ異例のことであった。同行は日露戦争以前はこの東京のほかに小樽に支店を設置していたが、営業網の拡大をめざして支店、出張所の増設を行っている。まず明治43年2月には地蔵町支店、大正期にはいると元年10月に旭川支店を設置した。前者は明治40年の大火以降の市街地の拡大があげられ、後者は旭川の経済的な成長ということがある。さらに大正9年1月の株主総会で函館の西部地区に支店を1か所設置することが提案され、また同年4月の臨時総会では小樽にもう1か所増設することが決定された。この結果、同年の上半期中に函館では弁天町支店が、小樽では入舟町出張所がそれぞれ設置されている。ことに大正9年8月に開業した弁天町支店については「同方面ハ区内一流ノ資産家多ケレハ相当預金ヲ吸収」(「日本銀行函館支店金融報告」)することへの期待が大きかった。これを裏付けるように翌10年における弁天町支店の年間の預金高は932万円にものぼっている(大正10年『北海道庁統計書』)。大正10年代には小樽に1か所、また函館の若松町にそれぞれ出張所を開設している。 函館銀行は明治40年9月に小樽に支店を設置し、大正9年には地蔵町に支店を拡大した。函館貯蓄銀行は日露戦争前は鶴岡町出張所と弁天町出張所を有していたが、戦後は東雲町にも出張所を置き、さらに大正10年代には海岸町、松風町、恵比須町、湯川村と派出所や支店を拡大している。貯蓄銀行はとくに零細な資金の獲得を目指したためにきめの細かい店舗配置を行っているが、それは市勢の拡大に対応したものでもあった。 ここで百十三、函館の両行の役員および株主について少しふれておこう。表2−40は大正初年と後半の両行の上位株主を比較したものであるが、百十三銀行の筆頭株主は杉浦嘉七から相馬合名会社へと交替し、函館銀行では小熊幸一郎が筆頭に躍りでるなど経済界の有力者の異動を反映したものとなっている。両行の株主となっているのは相馬グループくらいであり、金融界の重鎮としての面目躍如といったところであろう。
また役員の一員として長い間田中と共に同行の顔でもあり、筆頭株主であった杉浦嘉七は大正5年をもって取締役の座から退いた。なお相馬哲平は大正元年以来、函館貯蓄銀行の頭取であり2代哲平も引き続きその職にとどまった。取締役は杉浦のほかには渡辺熊四郎、渡辺三作、大正後期は渡辺孝平、相馬市作、山崎松蔵が加わり太刀川善吉と葛西耕芳が一貫して監査役を勤めた。 函館銀行のほうは大正4年7月に頭取が広谷源治から斉藤又右衛門に交替している。斉藤は同行の創業時からの役員で有力な呉服商であったが、大正3年には呉服業を廃業して、保険代理業に転じたほか、鉱山業に取り組んだりしている。また函館水電会社の監査役(後に取締役になる)を兼ねたほか、大正9年から11年まで函館商業会議所の会頭を勤めている。斉藤は百十三銀行との合併直前に小熊幸一郎が頭取に就任するまではその職にあった。取締役は笹野栄吉、久保彦助、金沢彦作、西出孫左衛門、監査役は平出喜三郎が一貫して就任していたほか監査役に一部異動がみられた。 函館貯蓄銀行は相馬以外の役員も百十三銀行と重なっており、いわば百十三銀行系の貯蓄銀行というべき存在であった。相馬のほかに渡辺熊四郎、石館友作が取締役の職にあった。 |
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