通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第4節 戦間期の諸産業 5 函館における銀行業の展開と金融事情 金融恐慌下の函館 |
金融恐慌下の函館 P396−P398 大正13年7月に大蔵省は各地方長官に通牒を発し、銀行合同にあたり8項目に及ぶ一定の方針を示し、その実現にむけて地方長官が尽力するように指令した(『明治大正財政史』第16巻)。こうして政府は地方銀行の合同を推し進めた。大蔵省からの通知を受けた土岐北海道庁長官は同年9月に道内本店銀行である糸屋銀行、百十三銀行、北門銀行、北海道銀行の4行に大合同を勧めたが、この時点では合同は実現しなかった。全国的にみると大正9年から昭和元年にかけて500弱の地方銀行が合併によって減少している(『地方銀行小史』)。昭和期に入り、政府、は金融制度調査会の答申に基づき昭和2年3月に銀行法を議会に提出したが、金融恐慌下の同年3月に公布され、翌3年1月から施行された。政府はこの新銀行法を実施するとともに銀行強化をめざし普通銀行の合同を各方面に奨励した。金融恐慌は昭和2年3月に震災手形の処理をめぐる法案審議のさなか大蔵大臣が東京の渡辺銀行が破綻したと失言したことに端を発した。そしてたちまちのうちに取付騒ぎとなった。さらに4月18日に台湾銀行や近江銀行が休業すると全国的に預金者は銀行に殺到した。その対応策として政府は3週間の支払い猶予(モラトリアム)を決定し、同時に中央組合銀行は4月22、23日の両日、銀行を休業することを決議した。
昭和3年の年頭所感として平出喜三郎会議所会頭が「当市の人々は、銀行に対し理解ある沈着なる態度を保った為」(昭和3年1月『函館商業会議所年報』)と述べているように函館では取付騒ぎがほとんど生じなかった。それは函館の銀行に道内の本支店銀行や取付対象となった銀行がなく、しかも東京本店の支店銀行が大手であるため預金者に不安感を与えなかったこと、また「由来中央金融市場ト殆ント独立シタル当市金融界」(昭和2年『函館商工会議所年報』)、あるいは「当函館に就ていふならば之位金融界の波乱に影響さるることの少い地方は全国にも稀な程で即ち安全地帯と称すべき」(同年4月19日付「函新」)といった日銀函館支店長の評価にあるように函館は潤沢な資金を背景とした強固な地方金融市場であったことなどがその理由として考えられる。 このほかに函館の対中貿易の不振といったこの年の経済基調、あるいは中央での取付騒ぎの時期が函館の海産物の取引時期としては閑散期であったことなども平穏裡に済んだ一因であった。なお、この金融恐慌により道内における本店銀行は休業や倒産という事態に至らなかったように全道的にもその影響は少なかった。ただし支店銀行では共栄貯金銀行が2年4月に破産したために、函館支店も閉鎖された。 |
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