通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第4節 戦間期の諸産業 5 函館における銀行業の展開と金融事情 大戦前後の金融事情 |
大戦前後の金融事情 P381−P383 大正3年7月に第1次世界大戦が勃発し、翌8月にイングランド銀行が公定歩合を引き上げると日本の金融市場は警戒感を強め、株式市場も暴落して経済的な不振に陥った。しかし4年の春先から景気回復のきざしがみえはじめ、徐々に戦時好況の度合いを強めていった。とりわけ輸出の激増が、国際収支の大幅な黒字をもたらした。函館の金融界も例外ではなく、こうした全国的な基調のなかでほぼ同じように推移していった。
大正5年も右肩上がりの成長を続けたが、翌6年には大戦の影響がさらに顕著となり、この年の9月には函館市中の銀行預金高が2000万円を越え、これまでの最高を記録した。それ以前の預金高と貸付金高との比率(預貸率)は3対1であったものが、6年には2対1となったので、それだけ各種の運転資金の需用が激増したわけである。7年は加速度的に両者ともに伸びたが、いずれも倍増といった現象を呈した。海運界の好況や外国貿易の伸長による経済界の膨張の結果が、こうした金融状況をもたらしたのであるが、前年記録したばかりの月間預金高を軽々と塗り替えて3000万円台となった。しかし同年11月の停戦により市況が不振となり預金・貸出ともに漸減し、金融界は警戒感のうちに8年を迎えた。この8年は綿布・生糸・米穀などの価格上昇や本道産雑穀が高値を呼んだこと、さらに鰊豊漁のために金融は繁忙となった。中国における排日運動により海産商は打撃を受けたものの事業の勃興や物価の高騰により金融界は繁忙を極め、金利も上昇して梗塞状況を呈した(大正8年『函館商業会議所年報』)。 函館において大正前期の期間ではこの大正8年が預金高、貸付高ともに最多を記録した年であった。2年を指数100とすると8年の預金高指数は384、貸付金高指数は543となる。したがって景気上昇によって市内の資金は潤沢となり、これに伴う銀行の資金調達も容易であったが、そうしたことを背景に活発な貸付を受けた経済界は飛躍的に発展をしていった。大戦中の後半から預金係数よりも貸付係数の伸びがはるかに大きいことはそれを裏付けている。 また、この時期における銀行による商品を担保とした貸出高や貸出残高は、大戦前の元年と大戦中の4年とでは大差がないが、5年以降に累進的な増加をみせ、とりわけ大戦後の8年には、著しく膨張して貸出高は5000万円を越えている。元年の係数を100とすれば342にも達した。さらに貸出残高についてみると貸出高と同じく8年が最多であり、担保別では海産物の比率が8年では64%(ちなみに4年では53%)ともっとも多い。4年から9年にかけて53〜68%と資金融資の半数以上が海産物関連に行われているが、海産物が函館の流通の根幹となる商品であったことが一目瞭然であった。ちなみに8年における貸出年末残高は海産物が3310万円、農産物が913万円、その他が764万円で総計は5143万円であった(「戦後ニ於ケル函館区商工業ノ現況」北海道大学附属図書館蔵)。こうした傾向は昭和期に入っても変わらないが、昭和元年の銀行の貸出先別の状況を表2−38に掲げた。
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