通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第4節 戦間期の諸産業 5 函館における銀行業の展開と金融事情 大戦後の反動恐慌 |
大戦後の反動恐慌 P391−P392 第1次世界大戦が、金融界に飛躍的な発展をもたらしたが、戦後の大正9年には対米輸出の不振に端を発して警戒感が強まり、金融逼迫となり同年3月に株式の暴落が起きて反動恐慌が生じた。函館においても中央の経済界の動揺によって警戒気味となり金融界は閑散な状態が続き、さらに中央の金融市場の梗塞から金利は騰貴状態で推移した。また一般の商況の低調さや貿易不振もあいまって資金需要も少なく、この年の市中銀行の総貸出高は2億9909万円と前年よりも7230万円もの減少となり、総預金高も同程度の減少をみせて「金融市場ハ前年ニ比シ非常ナル閑散ヲ告ゲテ越年セリ」(大正9年『函館商業会議所年報』)といった状態であった。とりわけ支店銀行は従来の積極的な貸出方針を改めて極度の引締め策を取り新規貸付はほとんど途絶えた。本店銀行もこれに追随する動きをみせ貸出の回収に努めたものの「土着銀行ハ当地ノ事情ヲ酌量シ且ツ従来ノ関係上漁業資金ニ放出」(「日本銀行函館支店金融報告」)せざるをえず、漁期を迎えての預金引き出しも大きく、また運用資金としての東京コールの低落によって一流銀行以外には取組が行われず日銀からの借り入れによって対応していった。支店銀行も本店からの資金供給に制限が加えられたためにやはり日銀からの借り入れを行った。こうしたこともあって日銀函館支店は同年4月には過去最高の貸出高を記録した。このような金融状況のなか函館の金融市場は他地域に比べて「比較的平穏」(同前)に過ぎていったが、9年5月には函館の柿本銀行が休業に追い込まれた。それは同行の和歌山支店が取付騒ぎに巻き込まれたからであった。同行は戦時好況に乗じて支店拡大を行い、道内には2店、道外は和歌山県下に15店、長野県下に6店とあわせて23店もの営業拠点を持っていた。ちなみに柿本銀行の経営者の柿本作之助は和歌山県有田郡の出身で、和歌山には3年に支店を開設している(『北海道人名辞書』)。こうした背景から、その後和歌山県下に支店網を拡大していったものと思われる。長野への支店設置の理由は不詳であるが、同方面が製糸業の中心地であることを意識したものであろうか。前掲の表2−39(→本店銀行の増資と資金流出)にみられるように同行は預貸率の非常に高い銀行であり、積極的なオーバーローン状態であったが、資金不足という面も持っていた。この9年の恐慌により預金停滞や固定貸付の増加といった要因から柿本銀行は経営の悪化を招いたものと思われる。同行は翌10年5月に整理を完了して解散した(『北海道拓殖銀行史』)。 大正10年2月に函館貯蓄銀行は資本金を7万円から30万円に増資することの認可申請をした。反動恐慌の影響から函館では9年春を端緒に一般預金が減少しはじめたなか、貯蓄預金はかえって増加傾向を示し、その伸び率も著しかった。こうしたことから貯蓄銀行の業務拡大の余地が大きいと判断し増資に踏み切ったのである(「日本銀行函館支店金融報告」)。 ところで零細な預金の保管機関として機能してきた全国の貯蓄銀行は、反動恐慌により多数、休業して零細預金者の被害に大きなものがあった。このために政府は10年4月に貯蓄銀行法を改正して、最低資本金を従来の3万円から50万円と引き上げ、11年から施行することにした(『明治大正財政史』第16巻)。したがって函館貯蓄銀行も認可申請が許可される前に法律改正があったために、あらためて資本金を50万円に変更せざるをえなくなった。ちなみに同行は法施行の1年後にあたる大正12年1月に増資している。 |
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