通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第4節 戦間期の諸産業 5 函館における銀行業の展開と金融事情 支店銀行の設置 |
支店銀行の設置 P382−P385 函館は小樽とともに道内における経済的な中心地であったことからさまざまな金融機関が設置された。本州および道内の銀行の函館における支店設置の動きをみておこう。明治30年代の函館に設置されていた支店銀行は日本銀行をはじめ、三井銀行、第三銀行、第二十銀行、それに江差銀行であった(明治33年『函館商工業調査報告』)。とくに三井銀行は明治初年から函館と深い関係を持っていた。しかし同行が投資銀行から商業銀行へと営業の方針を転換させることになった。それに伴い経費節減を図り、結局は利益の少ない支店を閉鎖することになり、函館支店もその1つであった。このため明治38年8月に函館支店は閉鎖され、店舗は北海道拓殖銀行に譲渡された。
なお拓銀は時代の趨勢に合わせて資本金の増資を行っているが、明治39年には500万円、大正6年には1000万円、同11年には2000万円と、増資のたびに資本金は倍増している。拓銀支店は明治40年の大火で罹災したために船場町に新築移転した。 東京を本店とする第一銀行函館支店(船場町)は大正元年9月に設立されたが、それは経営不振に陥っていた二十銀行を合併して継承したものであった。同支店は大正10年11月に末広町に新築移転した。第五十九銀行(本店は弘前、昭和18年に青森銀行となる/支店は当初地蔵町、大正7年に末広町に移転)は大正4年10月に支店が設置された。第十二銀行(本店・富山、昭和18年に北陸銀行となる)の支店は大正6年11月に地蔵町で開業した。同月1日付けの「函館毎日新聞」は「富山と当地とは商業上の関係も密接なるを以て取引者間の利便多大なるものならん」と経済的な交流の高まりに期待を寄せている。函館支店は北海道では小樽、札幌、旭川につぐものであった。 普通銀行以外では明治39年7月に北海道貯蓄銀行(札幌本店)函館支店が開設された。しかし41年5月に突如営業を停止し、預金者への影響も大きかったため政府は北海道拓殖銀行へ救済措置を命じた。翌42年1月に営業が再開され同年7月には拓殖貯金銀行函館支店と改称された(大正11年3月1日付「函毎」)。なお、同行は拓銀の管理下のもとに営業を行った。同支店はさらに大正11年1月に北門銀行函館支店と改称され、普通銀行の営業を行うようになった。また共栄貯金銀行函館支店(東京本店・資本金100万円)は大正3年10月に設立されている。ちなみに同行の前身は無盡会社の共栄貯金会社であるが、同社の函館支店は明治44年12月にすでに開業しており、大正3年に銀行組織に改組するに伴って、その支店も銀行支店へと衣替えをしている。道内には函館のほかに小樽、札幌、池川にも支店を置いている。零細業者のための金融方針をもって営業を行った(『函館商工案内』)。このほかに不動貯金銀行(東京本店・資本金50万円)は大正3年9月に函館に支店を設置(大正11年3月1日付「函毎」)し、10年3月には安田銀行系の安田貯蓄銀行函館支店が豊川町の安田倉庫を利用して開業した。次々と支店が設置されているが、道内での設置状況をみると大正8年時点の設置銀行は12行であった。そのうち函館に設置された支店は7行、他方小樽は10行、札幌は4行であり、こうした現象は本道金融の中心が函館から小樽へと移っていることを物語るものであった。 |
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