通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第3章 戦時体制下の函館 3 中国人の強制連行 函館華工管理事務所の場合 |
函館華工管理事務所の場合 P1267−P1268 先の表3−39(→閣議決定と試験的移入)の事業場から、もう1か所取りあげてみよう。この表3−39の5事業場の内、東日本造船函館工場と日本港運業会函館華工管理事務所の中国人労働者については、日本の敗戦後、外務省の関与で作成されたいわゆる『事業場報告書』が残されているが、東日本造船の報告書は原本の保存状態が悪く、判断が困難である。そこで、後者の函館華工管理事務所の報告書、正確には『華人労務者就労頁穎末報告書』(昭和21年3月報告)を中心に取りあげてみたい。 同事務所所属の中国人労働者は、前にも触れたように、東日本造船函館工場や日本港運業会の神戸および伏木華工管理事務所など、各地の事業場から移動してきた人びとで構成されていた。そして、これら中国人の生活管理は、日本港運業会の出先機関である函館華工管理事務所が一元的に行なって、事業場での作業管理は、使用側の函館港運が行なっていた。 作業場は、函館駅構内の省用炭貯炭場とその岸壁、同営業用炭高架桟橋およびその岸壁、海岸町の函館市営岐線とその岸壁、浅野町の浅野岐線と同石炭桟橋の4か所であった。函館駅の現場では、青函間の石炭輸送のため機帆船への積荷、貨車輸送による石炭の荷降ろし、港内停泊船舶への焚料炭の艀積および船倉内積込の作業で、「華人ハ主トシテ機帆船ノ積込及貨車卸ニ従事」した。 これらの中国人達を収容するための宿舎は、昭和19年の第1次の102人は万代町に、また同第2次の130人は鶴岡町に、それぞれ既存施設を改修して収容した。その後、翌20年2月、亀田郡亀田村字港29番地に宿舎を新築し、第1、2次分の232人を収容した。 しかし、3月10日にアメリカ人およびイギリス人捕虜が到着したため明け渡し、松風町に移転の上、全員を収容した。その後、第3次の240人を受け入れるにあたっては、この松風町の宿舎を改造して収容したが、同6月、アメリカ人などの白人捕虜が内陸の美唄方面に移動したため、6月中旬、再びこの港町の宿舎に移転した。 |
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