通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第3章 戦時体制下の函館 3 中国人の強制連行 函館の事業場 |
函館の事業場 P1259−P1262 この表3−40(→閣議決定と試験的移入)からも明らかなように、函館市内で中国人を使役した事業場は、東日本造船(株)函館工場、(株)瀬崎組有川出張所、日本港運業会函館華工管理事務所(使役者は函館港運(株))、(株)地崎組函館出張所(同上)、(株)菅原組函館出張所の5か所であった。この中で、受入から送還時まで中国人が同一の事業場にいたのは瀬崎組と菅原組の2事業場のみで、東日本造船と地崎組の場合は他の事業場へ転出し、函館港運の場合は、他事業場からの転入であった。以下、この表3−40により、個別の事業場における中国人労働者の移動状況を述べておこう。まず東日本造船函館工場の場合、「試験的」移入の一環として、昭和18年7月(第1次)と同年9月(第2次)の2回に分けて計431人の中国人が連行され、8月3日と10月10日に到着した。そして、約1年後の19年9月15日、日本港運業会船川港秋田華工管理事務所(使役者は秋田港湾運送株式会社)に300人、同じく函館華工管理事務所に102人、株式会社地崎組北海道第1華人収容所(留辺蘂町の野村鉱業(株)イトムカ鉱山)に2人が転出した。この間、22人が病気などのため中国に帰国し、4人が死亡、1人が行方不明となっている。なお、船川に移された中国人の内3人が、また地崎組の場合は2人共が死亡している。 瀬崎組有川出張所には、中国での契約数350人に対して昭和19年9月6日、中国・塘沽を出発したのは299人であり、9月12日の下関到着までの間に1人死亡した。したがって、瀬崎組が受入れたのは298人であるが、鉄道建設工事などに従事して翌20年10月19日、函館を出発するまでの間に3人が帰国、19人が死亡した。 次の函館華工管理事務所の中国人は、もともと東日本造船函館工場に連行されたが、昭和19年9月20日に同工場から102人が移され、同日、赤平町の地崎組平岸出張所からも2人が移されてきた。その後、同年12月5日、日本港運業会神戸華工管理事務所から130人、翌20年3月31日には同伏木華工管理事務所から240人が移され、函館港運には、延べ475人の中国人労働者が在籍していた。しかし、20年2月20日には、6人が地崎組北海道第1華人収容所に移されているから、実際は469人が稼働していたことになる。そして、同20年12月6日の帰国までの間に68人が死亡した。この死亡者数は、函館の5事業場の中でも最多であり、そのことは、函館港運での労働がいかに過酷であったかを示していよう。 地崎組函館出張所の場合は、当初の契約数300人に対し、中国・塘沽を出発したのは225人であり、下関を経て昭和19年12月7日、函館出張所に到着、函館港運の石炭荷役の作業に従事した。約4か月後の同20年4月15日、この間の死亡者7人を除く218人が地崎組大野出張所に転出している。 そして最後の菅原組函館出張所では、契約数400人に対し、中国・青島での乗船数は396人、下関への上陸数は390人、事業場到着数は385人であった。したがって、船中死亡は6人、その後の輸送中の死亡が5人となり、計11人が2月6日の函館到着以前に死亡している。そして同年5月23日、約半数にあたる180人が厚岸町の菅原組門静(もんしづ)採石所に転出、同地で採石積出しなどの労働に従事した。函館出張所に残ったのは205人であるが、同12月2日に函館を出発するまでの間、港湾荷役労働により19人が死亡した。 以上、表3−40によりながら函館における中国人労働者の強制労働について概観してきたが、地崎組の使用した225人の作業現場は、函館港運の石炭荷役であった。このことから、函館における中国人の労働現場は、そのほとんどが港湾荷役作業によって占められていたことが分かる。 |
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