通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第7節 都市の生活と新しい文化 8 大正・昭和前期の函館にみる働く女たちの実相 1 大正期 進出する女性たち |
進出する女性たち P977−P978 大正デモクラシーと連ねて呼称されることの多い大正時代は、広く国民諸階層の人々がそれぞれの自覚をもって歴史に登場した時代、いいかえれば、それまで日の当たらぬ場所にいた人々が、政治的・市民的自由の獲得と擁護のために立ち上がり、運動を起こした時代といわれている。特に女性にとって見落とすことのできない大切な時代といえるのは、現在わたしたちが享受しているさまざまな自由や権利、例えば婦人の社会的な集団活動や職業選択の自由のひろがり・政治参加の要求・専門教育を生かした生き方などは、この時代に芽を出し浮上しているからである。一般的にはこのように把握されている時代だが函館の女性たちはどうだったのだろうか。大正期から昭和5年までの函館は、人口の規模からいっても道内第一(『国勢調査概況』)、東京以北最大の都市であり、そこに住む女性たちは、幕末期西洋文物をいち早く取り入れ消化して行ったモダンさと、周囲に束縛されない自由さを合わせ持って様々な職業に挑戦し、また社会的集団活動を行ったりしている。たとえば函館の女性たちの中で最も早く明治期に同業者組合を結成したのは髪結いであった。少し遅れて大正6(1917)年10月9日、女教師たちは区内小学校女教員会議を開催し、東京で開催される第1回全国小学校女教員大会に派遣する女性2人を選出している(大正6年10月11日付「函毎」)。一方、区内のキリスト教系4教会の婦人会は大正2年10月に函館婦人矯風会を再編成し、講演会や病院慰問活動など盛んに行っている(日本キリスト教婦人矯風会『函館支部一〇〇年の歩み』)。またこの頃、女性によって裁縫女学校が相次いで開設されている。さらに第1次世界大戦が終わった翌年の大正8年、前年夏の米騒動が象徴するように物価高騰は道内にも広がり、函館区内でも小売りの米の値段が6月25日1升54銭、7月14日は57銭5厘、翌15日には60銭と上昇した(大正8年7月15日付「函新」)。そしてこれに呼応するようにして、賃金値上げ要求の同盟罷業が区内各所で起こっているが、これらのストライキにも女性の姿が見える。8月24日の友愛会函館支部の集会には、堤製罐工場の女工2人や鉄道院工場の女工1人も参加し、労働時間の制限・最低賃金制・同盟罷業権などについて協議している(松山一郎著『函館地方社会労働関係史資料』)。 大正期に発刊された函館の大衆娯楽雑誌『ニコニコクラブ』(大正9年1月号)によれば、当時の新語番付の両大関は「民本主義(デモクラシー)」と「怠業(サボ)る」、両年寄は「新しい女」と「出歯(でば)る」である。明治44(1911)年、平塚らいてうらによって『青鞜』が創刊された時、彼女たちは「新しい女」といわれ、人権宣言をした生意気な女性として非難の対象であったこの言葉が、10年近くの間に地方都市にまで波及し、より一般化したようである。 このようなことから、函館でも大正デモクラシーの高揚と共に女性の社会進出や自己主張が目立ち始めていたことがうかがわれる。事実、単に家業を継ぐだけでなく外に出て様々の職業分野に女性が登場している。当時の地元紙は「覚醒した函館婦人 女の収入」(大正7年2月5〜15日付「函新」)というタイトルで函館の女性の職業と収入を紹介している。この連載にとりあげられている職業は明治時代からの産婆・髪結い・女教師・看護婦に加え、電話交換手・女給仕・女理髪師・女弁士・活動写真女案内人・女事務員・女医・豆撰り工場や綿、網工場の女工・浜稼ぎ女人夫・洗濯女・お茶お花お裁縫の師匠などで、職種の多様さが目につく。ちなみに収入は出来高で、日給最低21銭くらいの者から、月収7円から12円前後の者、そして個人差はあったようだが月100円以上稼ぐ髪結いや産婆まで様々であった。 |
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