通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第7節 都市の生活と新しい文化

8 大正・昭和前期の函館にみる働く女たちの実相

1 大正期

進出する女性たち

職業婦人の活躍

本道第一と称された婦人結髪組合

函館病院の看護婦など

収入から見た筆頭・産婆

女教員のガンバリ

女教員の待遇

各分野で奮闘する高学歴の女性たち

女教員のガンバリ   P985−P986

 高等女学校令が公布されて3年後の明治35(1902)年、庁立札幌高等女学校(以下札幌高女と略す)が新設された。道内では最初であったが、全国には既に70の高等女学校が設立されていた(『学制百年史』教育統計)から、本道もようやく本州並に女子中等教育の整備に乗り出したと言えよう。北海道庁立函館高等女学校(以下函館高女と略す)は札幌高女の3年後、本道2番目の庁立高女として創立された。同校の『六十年史』によると、190人の志願者に対し100人が入学を許可され、明治38年4月の開校時の教員8人中、女教員は修身、歴史、地理担当の伊地知さつ・国語担当の小貫琴・体操担当の森山てるの3人だった。その後学校の規模が整備されるにつれ女教員の人数も増えていった。しかし女教員の多くは在職期間も短く、教科も裁縫・刺繍や茶華道、造花、薙刀、家事などいわゆる良妻賢母主義につながる教科担当が多かった。
 38年の開校とともに赴任した伊知地(旧姓忍)さつは、大正11年、雑誌『婦人世界』創刊記念で高女教諭として勤続15年表彰をうけた女性(本道は2人)の1人であった。明治43年、前任地秋田高女から赴任し、昭和10年3月まで25年間数学を担当した清水サワと共に東京女子高等師範学校(以下東京女高師と略す)出身である。
 女教員と一口に言っても前述の高女の女教員の他にも遺愛や聖保禄、大谷や実践女学校などの私立女学校で教える女性や裁縫学校で教える女性もいた。明治26年函館生まれの外山ハツは、2人の子供を実家に預けて26歳のとき上京、大妻コタカの技芸伝習所で6年間学び、関東大震災に遭遇して帰函した。翌大正13年、大妻技芸学校を蓬莱町に創設、生徒30余人から出発している。山口県出身で東京大妻での学友で寮友だった神田マスコがハツを支え、共に女子教育一筋の人生を送った(『大妻』6・7号、佐古ミエ子談)。また明治22年生まれで女学校卒業まで岩手県一関で暮らし、結婚後函館に来た四倉ミツヱは、夫の許しを得て上京、3年間の勉学の後資格を得て帰函。昼は函館実践女学校の教師として勤め、夜は和裁塾で教えていた。昭和5年41歳のとき19年半勤めた実践を辞し、昭和技芸学校を東川町に創設した。6男1女の子供を産み育て、かつ初代校長としてやはり教育に捧げた一生だった(『道南女性史』2)。
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