通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第7節 都市の生活と新しい文化 8 大正・昭和前期の函館にみる働く女たちの実相 1 大正期 函館病院の看護婦など |
函館病院の看護婦など P981−P983
大正4年6月、内務省は各県まちまちだった看護婦規定を統一して「看護婦規則」を制定した。この規則では、看護婦とは「公衆の需(もと)めに応じ、傷病者または褥婦看護の業務をなす」(第1条)女子とし、その資格は、18歳以上で、看護婦試験に合格あるいは地方長官指定の学校または講習所卒業の資格を有して、地方長官の免許を受けた者と規定(第2条)している。これをうけて翌5年から道庁は年2回看護婦試験を実施することになる。函館病院でも従来の養成規定を改め、大正5年からは道庁指定の看護婦講習所を開設し、ここの卒業生には無試験で看護婦免状を授与した。大正9年秋から北海道帝国大学でも看護法講習科が設置され、看護婦養成が開始されている(『北大百年史』通説)。 昭和2年の地元紙は、「市内に正式の看護婦がいない、全部が女中子守兼用。極めて重大な問題」と書き(同年3月13日付「函日」)、有資格看護婦不足の理由として養成機関の少ないことを上げている。函館病院の看護婦講習所は、大正7年第1回卒業生を出してから廃止するまでの33年間に457名の卒業生を出しており(『函館病院百二十年史』)、各年に換算すると14名弱となるが、就職しないで結婚する人もいて、市内の病院や医院では免許を待った看護婦数は不足状態だった。 これを解消するため函館の医師有志は大正15年5月から見習看護婦に看護学の講習を行い、受講者に資格試験を受けさせるようにした(『函館医師会史』)。修業年限1年の函館看護婦養成講習会が東川小学校で開講され、昭和元年、30人が学び25人の受験資格者を出している(同日「函日」)。 表2−215の看護婦総数のなかで、函館病院の看護婦の占める割合はかなり大きく、大正期は2割強から6割強の時もあり、昭和に入ってからも1割は越えている。明治・大正期に函館病院に女医はいなかったが、『函館病院百二十年史』の旧職員名簿からは、看護婦長として明治期から大正・昭和期とずっと女性が活躍していたことがわかる。他にも市内には公立病院があり、ドック病院など多くの私立病院もあり、その他軍人とその家族を対象とする函館衛戍(えいじゅ)病院(大正7年秋、札幌衛戍病院函館分院と改称し、昭和5年に千代ヶ岱町に新築移転)や日本赤十字社北海道支部函館診療所(昭和14年4月開設)などがあり、これら病院勤務の看護婦は月給制など条件的に恵まれていたといえる。一方派出所に籍を置き求めに応じて患者宅に派出される看護婦たちもいた。看護婦は産婆に比べると収入は少なかったようで看護婦上がりの産婆も多かったという。表2−216は各年『函館区(または市)衛生報告』より作成した函館区(市)の免許種別の看護婦数と産婆数である。表2−215と数的に差はあるが、だいたい産婆の方が多かったが、昭和14年から看護婦数の方が多くなっている。
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