通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第7節 都市の生活と新しい文化 8 大正・昭和前期の函館にみる働く女たちの実相 1 大正期 女教員の待遇 |
女教員の待遇 P986−P990 函館高女師範科を出た大正10年から20年間函館の小学校の教員だった川崎ヤエは、「教職を選んだのは当時としては女性の職業として優遇されていたから」(前同1)と語っているが、人数的にも多い小学校の女教員の待遇などをみてみよう。明治33年「教員免許令」が公布され、教員免許状は教員養成の目的を以て設置された官立学校の卒業生または教員検定に合格した者に授与され(第3条)、教員検定には試験検定と無試験検定がある(第4条)と規定された。明治末、函館の女性が教員の資格を取るためには、4年間の高女卒業後、補習師範科を1年修了すれば尋常小学校本科正教員の資格が与えられた。当時高女の卒業生は教員になる者が多く(『道南女性史』4)、地元紙も「高等女学校は良妻賢母を作るためにあるのに半ば以上教員を養成しているあり様である」と論評している(明治44年12月25日付「函日」)。次の表2−217Aは函館市小学校男女教員数、表2−217Bは月俸表である。教員といっても代用教員・準教員・専科正教員・尋常科本科正教員・小学校(高等科)本科正教員とあり、月俸には差があった。当時の教員は男女同一賃金でなく、女性は男性に比べかなり低額であったから、人件費節約の面から女性が採用されていたという面もあった。表から、小学校本科正教員は圧倒的に男教員が多い事が分かる。それは、男性は庁立北海道函館師範学校(大正3年開校)で資格を取得できたが、女性には女子師範が函館にも道内にも無かったことが関係すると思われる。反対に尋常科正教員は女教員が多い。大正10(1921)年で表2−217Bを見ると、同じ資格でも小学校(高等科)本科正教員の男女で月棒は12円強の差があり、女性同士でも高等科正と尋常科正とでは10円、尋常科正と代用教員では8円、高等科正の男教員と尋常科正の女教員では22円近くの開きとなっている。また全道の女教員と比較すれば、函館の女教員は札幌市と同じく準教員や代用教員が少なく正教員の比率が高かった。女教員の比率は札幌の場合は大正8年の49パーセントをピークに減少し昭和6年以降は30パーセントを割っているが、函館は大正8年で43パーセント強、昭和6年以降も32パーセント以上を保持している(表2−217A)。しかし昭和に入り戦争が長引くにつれ代用女教員の比率は高くなっていき、男女間や正教員との月俸格差も広がっている。
全国各地と同じく函館区でも、第1回全国女教員大会の前後2回、小学校女教員会議が開催されたが、函館教育会の指導下の全国大会派遣者選定と議案討議が中心の大会であり、報告大会であって、女教員たちが自発的に作った会でなかったといえるが、女教員2人を東京に送り出している(大正6年10月9日付「函毎」)。大正9年、第1回北海道女教員研究大会が札幌で開かれ、函館からは2人が参加した。「醒めよの鐘は我が初等教育界にも厳かに鳴り響いております。…奮起しなければならぬ者は、現代の男教師であると共に又それは現代の女教師でなければなりません」と、趣意書は全道にむけてデモクラシー精神を高らかによびかけた(『北の女性史』資料)。2年後、札幌市女教員会が結成され、その2年後の13年6月17日には、函館市小学校女教員会が公会堂で開催された。会長は斎藤与一郎、副会長には松田タケが選ばれている。会員130余人。前表を見ると、大正13年の函館の小学校女教員は総数で152人(男教員220人)であり86パーセント強の組織率であった。このようにして全道各地に誕生した女教員会は、大正15年には(第1回)北海道連合女教員大会を結成し、本道に女子師範学校を早急に設立するようその筋に建議することなどを決めている。なお連合女教員会『会報』によると、昭和2年で会員679人、うち函館は120人で、札幌の185人に次いで多い。小樽は100人となっている。 以降、太平洋戦争勃発の前年まで毎年大会を開き、女教員の地位の向上などに健闘している(『北の女性史』)が、昭和初期の不況は減俸・就職難など女教員をも直撃していった。従来高女師範科卒業生に授与されていた尋常小学校本科正教員免許状も無試験では取得できなくなった。昭和7年2月、″本科正教員試験″が全道一斉に実施され、函館では函館高女を会場に函館高女生40人、大谷高女生21人が受験した(同7年2月26日付「函日」)。なお大正末から全道の女教員たちが一貫して要望して来た女子師範は、日中戦争が本格化し、男教員が出征して教員不足が深刻化してきた昭和15年4月、やっと札幌師範学校内に設置・開校された。同年10月、函館でも教員不足を補うため、函館師範学校内に尋常小学校準教員養成所が開設され、昭和6年32パーセントまでおちこんだ女教員の割合は、再び増加していった。 函館師範学校付属国民学校訓導の破毛(小原)ロクは、昭和17年8月、札幌で開催された第3回全国女教員興亜教育研究会で次のように発言している。函館では昭和9年の大火後の財政難の時でも、教員の産前産後休養期間中は代替教員を配置していたのに、前年(16年)からは本人も遠慮し当局も許さなくなったが、これは母体や胎児の健康障害となり国民保健上重大問題であると戦時下の女教員待遇の現状について報告し、当局の善処を求めた(『北の女性史』)。彼女はこの時48歳、大正3年に岩手県女子師範を卒業し、昭和4年岩手から函館師範に赴任し、市の女教員会でも活躍していた。この研究会は全国から1000人近くが集まった大会であったが、以降戦局が逼迫して開かれる事はなかった。同年2月亀田国民学校で開かれた第1回渡島管内女教員研究会では、待遇改善云々はなく必勝の信念で聖戦の完遂を期し誓う大会となっていた(昭和17年1月8・13日付「新函館」)。 |
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