通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第7節 都市の生活と新しい文化 8 大正・昭和前期の函館にみる働く女たちの実相 1 大正期 本道第一と称された婦人結髪組合 |
本道第一と称された婦人結髪組合 P980−P981
当時、髪型は洋髪が日本式束髪となって流行していたが、昭和初年にはコテに代わりパーマネント・ウェーブ機が導入された。函館でも田口フクのマーセル美容室では昭和11年アメリカ製の、翌12年には国産のパーマ機械を購入、パーマをかける人はだんだんと増えていったと言う。しかし芸妓や遊廓の娼妓は日本髪を結うのが普通で、若松(島本)タネは芸者専門の、また平川ハルエは廓の髪結いとして知られていた(道南女性史研究会『道南女性史研究』3、以下『道南女性史』と略す)。日中戦争が始まり、昭和14年、パーマネント・ウェーブやその他浮華なる服装、化粧の廃止規約が出されると、パーマは敵国のものと排斥されるようになり、函館の美容界でも整髪運動に乗り出している。さらに遊興営業の時間が制限され、やがてそれら営業店の一斉休業が報じられる頃には(昭和15年12月6日付「函新」)、昭和10年には185人(組長川端ツイ)だった結髪組合員数(同10年6月22日付「函新」)は更に減少し、廃業する者も相次いだ。 |
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