通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第7節 都市の生活と新しい文化 8 大正・昭和前期の函館にみる働く女たちの実相 1 大正期 職業婦人の活躍 |
職業婦人の活躍 P978−P980 職業婦人という言葉がいつ頃から使われだしたか確定はできないが、大正時代後半には雑誌や新聞などにも登場し、一般に流布されていることがわかる。この言葉は、工場労働者も含めて使う場合もあるが、普通は産業の流通面で働く婦人のことをさし、層として現れたのは第1次大戦前後からである。第1次大戦や米騒動のような経済・社会的変動が婦人を家庭から職場に押し出したとも言える(『大正デモクラシーと女性』合同出版)。大正11年、札幌の職業婦人の数は1300余人に達したという(大正11年6月1日付「北タイ」)。東京では大正12年4月、奥むめおが「職業婦人社」を設立しており、翌年12月東京市社会局は『職業婦人に関する調査』を刊行した。これは市内の職業婦人2000人を対象(900人回収)に大正11年に実施された調査の報告書である。それによると女教員の内59パーセントが既婚、全体では84パーセントが未婚で、託児所や家事の社会化を職業婦人たちが要望している事などが分かる。各地で職業婦人の数は確実に増加しており、前述の『ニコニコクラブ』にも「職業婦人全盛」(大正14年11月号)とあるように函館においても職業婦人の活況ぶりはうかがえる。さて、大正11年5月「函館新聞」の「女の職業」特集によれば、人数的に最も多くの女性が携わっていた職業は、まず女髪結いで、助手30余人を含めて区内に270人とある。次に多いのは女五十集(いさば)屋で山背泊から住吉町、東川町近辺中心に200余人。小資本で早朝買い付けた魚を得意先に売って回る漁港ならではの職種のひとつであろう。そして女教員129人、看護婦120人、電話交換手(函館局)110何人、産婆78人と続く。その他、子持ちの胴突き女(子連れで普請場に出入りする女出面で綱1本引っ張りながら労働作業をした)や浜町などの女出面、網工場や綿打ち工場・マッチ工場などの女工、女事務員や女店員、飲食店の女中、芸娼妓、カフェーの給仕女という職種も挙げられている。これらの内、人数(概数だが)が出ている女髪結い270人から産婆78人までの合計は900余人。大正11年の芸娼妓の数は『函館市史』統計史料編によれば1137人となっている。彼女たちは職業選択の自由、転廃業の自由、公私の区別という点から職業婦人とみなされにくい部分もあるが先きの新聞では、女の職業として紹介されており、職業をもった女性といっても、函館では芸娼妓の占める数が多かったことをおさえておきたい。またこの1000を優に越す女性は、函館で最初に同業者組合を作り活発な動きをしていた髪結いの得意先でもあった。函館経済の繁栄の陰の部分として、出稼ぎ女工たちの働き(後述)と共に見おとせない女性であった。 |
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