通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第7節 都市の生活と新しい文化

8 大正・昭和前期の函館にみる働く女たちの実相

1 大正期

進出する女性たち

職業婦人の活躍

本道第一と称された婦人結髪組合

函館病院の看護婦など

収入から見た筆頭・産婆

女教員のガンバリ

女教員の待遇

各分野で奮闘する高学歴の女性たち

収入から見た筆頭・産婆   P983−P985


沐浴風景(『道南女性史研究』創刊号)
 命を生み出す職業として産婆は、資格を持ってさえいれば手軽に開業でき、年を取っても続けられ、収入も確実に入る女の職業であった。『北海道衛生誌』によれば、大正期の函館区には産婆講習所が2つあった。会所町に在った藤野病院付属のものと区立函館病院付属のもので、これらの講習所を出た後、道庁実施の産婆試験に合格して初めて開業できた。ただし函館病院は内務省の指定を受けて、昭和元年の卒業生から無試験で産婆の免許を与えられることになった。同書によれば、大正2年末、函館区の産婆95人中、本道試験合格者40人、他府県試験合格者23人、従来開業33人となっている。
 明治38(1905)年に結成した札幌(同年4月27日付「北タイ」)よりはかなり遅れたが、大正7(1918)年5月16日に函館産婆組合が結成された。区内約80人の産婆中50人が参加、組長桑原久江以下、副組長2人、幹事2人、部長・副部長各4人ずつが選出されている(同年5月17日付「函日」)。『函館助産婦会五十年のあゆみ』(昭和46年刊)には創立会員として桑原をはじめ46名が記名されているから組合に参加しない産婆も同数くらいいたと考えられるが、組合では毎月1回産科医の講習を受けることや年1回産婆講習会を開催することなどを決めている。
 収入の面から職業婦人の第1位で「電話を架設して助手の二人も置いている一流所になると一ヵ月の収入が四、五百円を越える」(大正11年5月13日付「函日」)と書かれた産婆だったが、大変な仕事でもあった。昭和5(1930)年50歳で自ら命を断った産婆田中アイ(明治14年・七飯村生まれ)は、17歳の時、札幌病院の住み込み看護婦になって資格を取り、函館の避病院の看護婦として働く。その後ドイツ帰りの医師の勧めで、夜、産婆講習所に通い念願の免状を手にし、大正2年新川町で開業した。仲間の産婆たちから「あれは田中式分娩法だ」「産婆仲間の顔に泥を塗る、人気取りのためか」と責められながらも、産褥婦にクレゾールを使用する消毒法、産後休息の大切さ、動物性蛋白質摂取の必要性など指導する一方、危険な座産でなく仰臥位法など近代医学を取り入れた産科学と科学的近代分娩法を採用し、貧しい人には無料で応じた。しかし祖母に任せきりだった息子が特高警察に追われる身となり、アイも何回も取り調べを受け疲れ果て、ついに3回目、昇汞錠1箱を飲んで壮絶な死を遂げた。人々は堅く口を閉ざしてアイとの係わりを否定、前掲の『五十年のあゆみ』にもアイの名は創立時の名簿に記載されているだけである(『道南女性史』1)。
 大正2年末、函館区では、産婆1人に対する人口は996人で道内一少なく(全道平均2112人)、人口の割には産婆が多かった(『北海道衛生誌』)ことになるが、昭和に入り、多子家庭表彰や生めよ殖やせよの時代の要請に呼応するかのように、産婆になる女性は昭和13年まで増え続けている(表2−215参照→函館病院の看護婦など)。函館産婆会で決めた料金は、昭和7年で診察料1円、再診料50銭、分娩料は5円以上50円までと高額だったが、昭和12年7月7日の日中戦争開始後は、出征軍人家族の分娩に限り無料で取り扱うことを決めている(前掲『五十年のあゆみ』)。
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