通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第6節 民衆に浸透する教育 1 大正デモクラシーと教育 1 初等教育 尋常夜学校の新設 |
尋常夜学校の新設 P645−P648 この時期には就学問題から不就学の問題へと事態が変化したといわれる。大正期における不就学・中途退学の事由別比率では、「児童労働(貧困)」が、同6年の78.7パーセントを最大に、13年の69.2パーセントを最小として、70パーセント台を推移している。不就学問題は、貧困問題の様相を呈しているとされる所以である(仲新監修『学校の歴史』第2巻)。この貧困による不就学問題に公教育として対処する動きが、明治末期以降大正期の前半に現れる。その1つのきっかけをなしているのが、大正5年の「工場法」の施行である。明治33年の第3次小学校令第35条には「尋常小学校ノ教科ヲ修了セサル学齢児童ヲ雇傭スル者ハ其ノ雇傭ニ依リテ児童ノ就学ヲ妨クルコトヲ得ス」と規定されていた。ところがこの規定は、児童の就業を禁止するものではなかった。一方、明治44年制定の「工場法」は、大正5年に施行されるが、同法では児童雇傭の最低年齢を12歳と規定している。ただ、「工場法」は従業員15人以上の工場に適用されるものであって、その適用を受けない小さな工場へ児童が移るという事態も見られるようになっていく。また、10歳以上の幼年者も地方長官の許可を受けて就業させることができる、とする規定があり、児童労働は、依然として不就学の理由の主要なものになっていたのである。工場、商店などでの労働、日雇い、年季奉公などによる不就学児童を、公立の小学校に夜間に登校させ、教育する試みは、他の大都市でも、明治末期から大正期にかけて見られるところである(『横浜市教育史』上巻)。函館区でも、大正6年に、区内の2つの小学校に、尋常夜学校を開設して、家庭の事情により昼間就学できない児童に、教育の機会を提供しようとする試みが始まっている。おそらく前年の大正5年9月の「工場法」の施行により、従業員15人以上の工場で働く児童の教育が、雇傭主により保障されるようになったことに対応して、昼間、商店や日雇い、その他の労働に従事する児童の教育を保障しようとしたものであろう。 函館尋常夜学校設立の経緯を、北海道教育会発行の『北海之教育』第293号は、次のように伝えている。 函館区学齢児童中家計困難の為め就学を猶予せる者大正三年度に於て百二十九名同四年度に於て百六十六名同五年に度に於ては二百五十余名にして逐年増加しつつあり而して是等児童中には引続き二三ヶ年猶予の止むなきものありて学齢児内に義務教育を終ること能はずして遂に中途廃学の不幸に至れるもの少からざるべく国民教育上最も考慮すべき点にして同区に於ては此欠陥を救済せんがため本年度より第二東川及新川小学校に尋常夜学校を付設し夜間に於て教授を為すこととせり其の本年所用経費は四百九十六円にして学用品は貸与又は支給することとせり 同様の記事は、大正6年6月に函館教育会の『函館教育』第208号にも掲載されており、修業年限、授業時間、毎週教授時数、教科目、授業料、学用品等について学則の概要を紹介し、「こは下層社会救済として適切の施設と云ふべきなり」と結んでいる。同校の学則の概略を掲げる。 函館区立函館尋常夜学校学則
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