通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第4節 戦間期の諸産業 2 塩鮭鱒流通の発展と函館 旧来勢力の後退と新規覇者の台頭 |
旧来勢力の後退と新規覇者の台頭 P340−P342 函館の塩鮭鱒業界は大手専業層に主導されながら明治期から大正期にかけて展開してきたが、そうした体制も昭和に入ると大きく再編されていくことになる。それは、主にそれまでの主体的努力であった有力専業層の没落と一方における日魯系勢力の台頭として現出していった。そのなかで業界大手の佐々木商店、川合商店などが当該事業から撤退、また加賀・森卯・細谷などの商店も没落し、さらに内山・田中・成宮・高岡・若杉・佐藤・藤村などの商店が相次いで倒産するなど、当業界の隆盛を築いてきた有力な海産商の多くが表舞台から次第に姿を消していったのであった。このような事態はその間での景気や商況などの経済要因とともに塩鮭鱒における日魯漁業の供給寡占化とそれに伴う当該流通への介入強化を規定に引き起こされたものであった。日魯漁業は大正末からカムチャツカにおける塩鮭鱒の生産態勢の拡充をベースにその販売強化と価格維持のために自社製品の国内販売体系の整備に乗り出してきたからである。 日魯漁業における塩鮭鱒の販売は、従前まで、函館の専属仲買人に委託して大手問屋に販売する方式がとられていた。専属仲買人には、丹波常吉、当摩彦太郎、小山与四郎、片谷勇蔵、叉十安達商店の上屋一郎の5名が指定され、代金の回収は日魯が行わずに叉十安達商店が取り扱い、各仲買が1万円ずつ合計5万円の保証金を日魯漁業に預託して、売上げ代金回収不能の場合には、これで補填するシステムになっていた(『日魯漁業経営史』第1巻)。日魯における販売政策の見直しはこの専属仲買人制を廃止することから始められ、当社による直接販売方式への転換が図られた。それは、同社販売部が特定系列店と直接協議しながら販売するというものであった。しかし、この方式はあまり効果が上がらなかったことから共販組織による元卸機関の設立が構想され、昭和2年に匿名組合「函館日魯組」が結成されている。 日魯漁業は大手専業問屋のなかから過去の取引実績、資本力、信用度などによって加賀与吉商店、森卯兵衛商店、佐々木忠兵衛商店、細谷伴蔵商店、柳沢善之助商店の5店を選び、日魯組を結成させ、自社製品の元卸業者として指定した。組合員の構成については、当初のメンバーのうち佐々木忠兵衛商店が当該事業からの撤退に伴い脱落したことから高村善太郎商店に代わっている。出資金は10万円で、組合員は日魯に対して債務の連帯保証を負っていた。同組の陣容は、加賀商店の大川原善蔵を代表に、売買主任に柳沢善之助と細谷伴蔵、会計主任に森卯一郎などであった。また、日魯漁業による各組合員に対する割当配分は過去の取引実績を基準に加賀商店30%、森卯商店28%、柳沢商店22%、細谷商店12%、高村商店8%であった。さらに各組合員の傘下の内地の塩魚問屋についても都市および県単位に日魯組の結成を促し、函館日魯組の専属買受人としていった。 日魯組は、日魯漁業製品の一手取扱に加えて日魯製品以外の取扱を強化することによって函館の塩鮭鱒業界の中心勢力としての地位を確立していった。こうして日魯組が寡占化をたどるなかで系列以外の勢力や取引に対する圧力も強められ、非日魯系によるカルテルの「協同組」などもその傘下に組み込まれていった。もっとも日魯に対する対抗勢力も形成され、その代表格に、柳沢商店の元社員大賀藤三郎が佐藤清五郎や京都の島津恒三郎と組んで結成した三栄商会がある。 しかし日魯組の権勢も僅か3年しか続かなかった。それはエトロフ産塩鱒の投機取引の失敗から瓦解してしまったためであった。それは、昭和4年は鱒の不漁年に当りカムチャツカ・樺太産が不漁であったことから日魯組の組合員はエトロフ産塩鱒の思惑買付に走ったが、エトロフ産鱒は予想に反し未曽有の大豊漁となったことから塩鱒市況が暴落し、130〜140万円の大損失を出して再起不能に陥ったからに他ならなかった。
日魯組の崩壊と函館水産販売の発足は、函館の塩鮭鱒業界にとって旧来努力の消滅と新たな覇者の出現であった。それはまさに函館海産業界にとってひとつの時代の終焉でもあった。 |
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