通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第4節 戦間期の諸産業 2 塩鮭鱒流通の発展と函館 大量供給される露領産塩鱒 |
大量供給される露領産塩鱒 P324−P325 露領産塩鱒は大正年代に入ると高水準な供給が続いていくことになり、大正3年から10年にかけては40万石台を中心に推移し、さらに11年以降は各年ごとに豊凶を繰り返していくが、特に豊漁年に当たる大正11、13、15年および昭和3年の供給量は60万から80万石とそれまでを大幅に上回った。こうした大量供給される露領産塩鱒は、内地市場に対する出荷対応の制約のもとで新たな販路を台湾および中国市場に求めていったのである。それは、「明治期から大正にかけては、露領漁業の製品が次々と函館に入荷したが、…北洋からの塩サケマスは、流石の函館海産界の力をもってしても右左の処分は困難で、…特に塩マスの生産過剰は悩みのタネであった。そこでこの塩マスの販路を、それまでコンブを始めとする海産物輸出で活躍している華僑によって、支那大陸に求めようとしたのは当然の成行であろう」(前掲『風雪の碑』)と記されるとおりであった。このように当初における輸出は主に函館在住の清国商人の手によって担われ、彼らが輸出取引や相場形成において強力な主導権を発揮するなかで、函館商人は「単なるサプライヤー(供給下請業者)」に過ぎなかった(同前)。しかし、明治40年代における露領産塩鱒の急激な供給増大は函館海産市場において膨大な滞貨を招き、清国商人に依存した輸出対応の行き詰まりを呈していくことになった。このような状況のもとで、函館の海産業界において直接輸出に向けた対応が模索されていくのだが、それは上海を輸出窓口とした中国市場における販路開拓と領有化後の台湾市場における販路開拓の2つの方向から進められた(表2−20)。結果的には露領産塩鱒の大半が台湾および中国市場に仕向けられるようになり、大正13年の場合は85万8000石の生産に対し79万9000石が、また同15年では73万9500石に対し70万8840石が、それぞれ両市場向けに移輸出されていた。 なお、仕向地域によって使用する取引の単位が異なっており、台湾の場合は斤、上海の場合は担、また日本では石ないし貫、で表記されている。
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