通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第4節 戦間期の諸産業
1 函館の経済界

2 塩鮭鱒流通の発展と函館

鮭鱒市場の再編

塩鮭鱒の内地向け出荷

塩鮭鱒流通の新たな動き

大量供給される露領産塩鱒

台湾移出

塩鱒の中国輸出

塩鱒の輸出と日魯漁業

塩鱒の輸出取引方法

日貨排斥による影響

集散市場としての函館の後退

旧来勢力の後退と新規覇者の台頭

塩鮭鱒の内地向け出荷   P320−P323

 函館における塩鮭鱒市場の発展基盤となってきたのが内地向けの出荷機能であり、それは明治40年代における露領産塩鮭の大量供給により新たな展開を果たしていくことになる。
 函館からの塩鮭鱒の内地出荷は、すでに大正2年で580万円・37万石(塩鮭11万石、塩鱒26万石)、大正4年で546万円・41万石(塩鮭17万石、塩鱒24万石)に上っていた。このなかには台湾向けの塩鱒の移出分も含まれるが、その主体は本来の内地市場向けである。こうした内地向けの商材を構成するのは、塩鮭の場合、露領産、道東産、樺太産などであり、なかでも露領・カムチャツカ産の白鮭製品が主力となっている。紅鮭製品は概して少なく、多い年でも1〜2万石程度で、露領産が中心であった。他方の塩鱒は択捉産と樺太産が主力となり、なかでも択捉産が形状・品質において高い評価が与えられていた。これらの集荷にあたっては根室などの道東方面の産地商人からの取引もあったが、多くは海産商と漁業者からの買い付けで行われていた。函館では古くからそうした海産商(委託問屋)と漁業者の間で仕込関係がとられる場合が多かった。
 漁業者との取引(浜取引と称する)は次の通りであった(「函館港ニ於ケル塩鮭塩鱒ニ関スル調査」北海道拓殖銀行『調査彙纂』第1巻第2号)。
(1)浜取引は、「生産品ヲ満載セル帆汽船ノ入港ヲ俟チ載貨ハ仲買人ニ通知スルニヨリ仲立人ハ之ヲ問屋若クハ他ノ買人ニ通知」し、「買人ト仲立人トハ本船ニ至リ仲立人ノ仲介ニヨリ荷主ト売買ノ交渉ヲ為」し、その際の仲立人の手数料は「売買成立ト同時ニ買人ヨリ取引総代金ノ一歩ヲ交付」するを普通とする。なお仕込関係がある場合は、「委托問屋ノ内ニハ被仕込者ヨリ生産品ヲ委托セシメ販売代金ノ二分五厘ヲ手数料トシテ徴シ貸付金ノ金利ノ外ニ利得スルモノ」もある。
(2)商談成立までの手続きは「倉入物ト本船積ノモノトヲ問ハス実際ニ一尾ノ目廻リヲ定メ(例ヘハ勘察加物一尾平均何貫何匁ト呼フカ如シ)、次ニ塩味ノ厚薄、肉質ノ硬軟ノ度、変質ノ有無ヲ検シタル後一円ニ付何貫何匁ト決定シ取引スル」ものとし、その場合の取引の単位は、塩鮭の場合「百石六千尾建」、塩鱒の場合は「択捉産百石一万二千尾、樺太産百石一万四千尾、其他産百石一万六千尾建」とし、1円に付き「何貫何匁」とする「円貫建」であった。
(3)この場合、売人は買人より手付金を徴収しない。
(4)貨物受渡は、大口取引と小口取引により「一日若クハ三日ニ亘ル」ことがあり一定しない。
(5)本品は、価格の変動が著しいため「一ヶ月又ハ二箇月ノ延取引」をする者はなく、皆「即金取引」である。
(6)市場内受渡に際し、「損失ノ保証トシテ差金何程ト前渡シノ契約ヲナシ価格変動ナキトキハ之ヲ代金ノ内入金ト看做スモノナキニアラス、破談ニ際シテモ手金ヲ没収スルノ悪習ナシ、是レ本品ハ主トシテ現金売買ニシテ金銭授受ハ両三日ニ限ラレ計算書ノ引渡ト同時ニ清算書ヲ求メルヲ以テ大口取引ト雖モ短期間ニ取引完了スルヲ以テナリ」。しかし「有力ナル露西亜商人中ニハ総代金ノ三割若クハ五割ヲ予メ徴スル例外」もある。
(7)浜値段取引の場合は、「入目トシテ二分ヲ増量」する風習がある。
 さらに集荷された商材は仕向先地域の主に塩魚問屋と取引・出荷されていくことになるが、当地海産商と先方の取引相手との間には、固定した取引関係があり、加賀商店においては、水戸−浜亀、米沢−鈴栄、札幌−カネ長富樫、仙台−鈴力、小諸−大塚宗三商店などがあり、森卯商店では、東京−三半、大阪−杉秀、深谷−永徳屋、下関−善栄、郡山−遠藤、札幌−カネシメ高橋、高岡−荻布商店など、柳沢商店では、東京−鳥勝、京都−島津、山県−矢野、甲府−石井、前橋−栄政、敦賀−西沢商店などであった(『風雪の碑−函館海産商同業組合概史−』)。取引は、概ね電信買付によってなされ、出荷者側は為替を受け出荷していた。委託出荷は商状不振の場合を除き稀であった。なお、先方の取引商の信用程度により差金として代金の1〜2割を徴収し、荷為替の取組はなされなかった。
 仕向先地域は東京、奥羽、北陸などの地域で、量的には東京向けの出荷が圧倒的に多く、そのほとんどは日本橋にある四日市組魚市場に対する出荷であった。同魚市場は塩干魚専門市場であり、特に明治期から大正期にかけては北洋・露領漁業関係の塩鮭鱒の委託販売市場として、またその集散市場として発展してきたところである。これらの商材は東京地区のみならず、周辺の関東・東山地域、一部は台湾まで転送されていた。同魚市場は昭和に入ってカムチャツカ産冷凍鮭や輸入鮭、新巻鮭などの取り扱いを強化しながら一層の発展を果たしていったが、中央卸売市場の開設に伴う築地市場への収容によって、江戸初期からの永い歴史に終止符を打つことになった。消費地側における四日市組魚市場は、まさにその対局の産地側に位置する函館と有機的に関連することによって、明治から大正にかけた塩鮭鱒市場・流通の発達に大きく寄与してきたと評価されよう。
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