通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第4節 戦間期の諸産業
1 函館の経済界

2 塩鮭鱒流通の発展と函館

鮭鱒市場の再編

塩鮭鱒の内地向け出荷

塩鮭鱒流通の新たな動き

大量供給される露領産塩鱒

台湾移出

塩鱒の中国輸出

塩鱒の輸出と日魯漁業

塩鱒の輸出取引方法

日貨排斥による影響

集散市場としての函館の後退

旧来勢力の後退と新規覇者の台頭

日貨排斥による影響   P336−P338

 上海向けの塩鱒輸出は大正年代を通じて順調な展開を遂げてきたが、その一方において重大な不安定要因も抱えていた。それは、第1に日本の中国への干渉や軍事挑発に対する日貨排斥の問題や戦乱による影響である。日貨排斥は中国に対する日本の干渉や軍事挑発に対し大正年代から繰り返し発生していた。なかでも大正4(1915)年の五四運動における日貨排斥運動は有名であるが、大正8(1919)年における山東問題や福州事件を契機として再燃した日貨排斥運動も輸出塩鱒の取引や相場に深刻な打撃を与えている。
 この日貨排斥運動が及ぼした影響について、若林忠雄は、函館商業会議所『所報』(第168、9号、大正9年、3、4月)に報告している。それによると、日貨排斥は主として学生の唱える処で、商家は勿論取引を希望し需要者も同様だが、「昨年五月より今日迄約一ヶ年其間不断の排貨宣伝は驚くべき効果を現し単に学生の取引妨害によるのみならず実際需用者が需用に範しつつある結果なりと思はざるを得ず」。商人のボイコットは一時的だが、学生の排日宣伝は「利害を打算せざるを以て永久的なり」というべきだろう。まして需用者の脳裏に刻まれた「仇貨なる観念」は日本品の将来にとって憂えるべきことであると。続けて「上海に於ける日貨排斥と主要輸入本邦品」と題して次のように報告している。

 客年五月山東問題を動機として突発せる排日排貨は数月間猖獗を極め商取引殆ど全く杜絶したりしが其後漸次緩和せられ十十一月の交取引稍旧に復せんとするの傾向なりき然る十一月末福州事件を動機として排日排貨は再び勃発し其運動数日ならずして殆ど支那全部に波及し又復商取引殆ど杜絶するに至れり是等の排日排貨は果して何時に至りて終熄すべきや之を逆賭するを得ずと雖日支貿易上に多大の悪影響を及ぼせるや素より論なし而して排日排貨は支那の各種工業に勃興の好機会を与え又欧米品は此機に乗じて戦時中失態せる勢力の挽回策に汲々たり戦時中獲得せる本邦品の地位を維持せんこと蓋し容易の案にあらざるなり(略)
 海産物 客年五月以来の排貸問題は漸次終熄の姿にて貝柱、海参、鹽鱒等弗々売行わるに至り十月頃より激激取引の曙光に見るに至るや当業者は競争して続々之を輸入せる為人気悪化し取引を阻害するものありし折柄十二月に入り又復排貨となり何れも多額の在荷を擁して而も相場は一箇月前に比し三割の下落を示し当分取引休止のやむなきに至り或は内地又は台湾等へ積戻して余儀なくせられたるものあり元来上海市場を初め支那各地に於ける海産物の大部分は日本若くは日本人の取扱に係る外国産品なるを以て日貨排斥に際し常に第一著犠牲に供せらるるは当然のこととす而して本邦商支那商共に前途を悲観し殆ど投売りの姿に出でたれば今や市中在荷激減し最近に至り相場は反発を告くるに至れり茲に日貨抵制運動が海産物界に及ばせる影響として特筆すべきは従来日本人の取扱に係りし加奈陀産鯡が最近米国人の手により輸入せらるるに至れることとす、是れ従来本邦商が神戸等に輸入し之を支那に再輸出せるものなりしも本邦商の取扱に係るものは仮に外国産たりとも排斥せらるるに至りしより此機に乗じて米国人が活躍せるものに外ならざるなり

 さらに中国国内における戦乱による影響も大きく、なかでも大正13年に上海周辺地域において勃発した江浙戦争は物流・商取引・相場・為替などに甚大な打撃を及ぼしている。同じく若林の報告(同前第223号)によると、「本品(塩鱒)は需要地が丁度戦乱の巷となりたる為崑山、南翔、蘇州地方に一俵も行かず大打撃なる上金融上江北、崇明島、杭州、嘉興等の取引も思ふ様ならず単に上海付近と寧波方面の需用のみにては取引は例年の半分に足らず最も甚大の影響を蒙りたるが産直航船十一隻の内約五隻分荷渡し済み未だ売買出来ざるもの二隻なり相場構は大豊漁の為め後下りなりしと為替の暴騰にて最初の出来値より一両約二割の安値となりしと戦争の為め買手支商は戦争不可抗力を盾に解合を要求し来たり大部分百斤三匁にて解約せり目下相場は新取引なく不明なるも支那商の卸値は六両見当なり」ということである。
 第2に上海市場をめぐる輸入競合商材の問題である。塩鱒における最大の競合商材は当初からアメリカ産の輸入塩鰊(米鰊)であったが、かかる商材に対しては、輸入・需要期の棲み分けにより、直接的な競合を回避するための対応が取られていた。むしろ直接的な競合を生じさせていたのがソ連産塩鮭鱒であった。同商材が中国市場に新規参入してくるのは大正15年であり、それに続く輸出攻勢のもとで日本産塩鱒は日貨排斥とも相まって極めて劣勢な対応に迫られていった。その結果として昭和3年においては日本産の輸入が5万担まで減退しているのに反してソ連産は18万担と大きく上回ることとなった。こうしたソ連産の輸出攻勢は昭和8年まで続いていくのである。
 こうした状況を受けて上海向けの塩鱒輸出は昭和に入ると急速に収縮していくことになり、昭和3年には3万担まで落ち込み、特に5年以降は満州事変や上海事変などによる日貨排斥のため途絶に近い状態まで追い込まれていくのである。なお中国向けの塩鱒輸出については、上海以外の香港や広東などに対しても直輸出のための各種の対応が進められたが、輸出量では上海が圧倒していた。ただ大正末になると大連向けの輸出が次第に増加していくことになる。
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